醤油の渡来は諸説あるが、8世紀に唐の僧・鑑真が「醤」の一種である「味醤(なめ味噌の一種)」を日本に伝えたのが最初ともいわれる。鎌倉時代には紀州(和歌山)湯浅で「たまり醤油」状のものが生産され、社寺の境内などで売られたという。織豊時代にはかなり日常的に使用されていたようだ。
関東では、永禄年間(16世紀半ば)以降、下総(千葉県)の野田、市川、銚子などで醤油づくりがはじまったと伝えられ、江戸幕府が開かれてから本格化した。
キッコーマンの祖となった高梨兵左衛門と茂木七左衞門が野田で醤油や味噌をつくりはじめたのは、寛文年間(1660年前後)のことである。茂木家には、大坂夏の陣で戦死した豊臣方の武将の未亡人が、関東に移って醤油づくりをはじめたという伝承が残されている。
野田は水運の要であった。鬼怒川、渡良瀬川などが利根川に集まり、新たに江戸川が開削されたことで、北関東の穀倉地帯から大豆・小麦が、江戸湾に面する行徳からは塩が運ばれてきた。おりしも、江戸では空前の人口流入がはじまっており、野田は全国一の醤油生産地に発展していった。幕末の野田の生産高は3万8,600石(約7,000kl)に達していたという。
三代安藤廣重『大日本物産圖會』に描かれた「亀甲萬」の醤油造り
「亀甲萬」を統一商標にする
明治になってからも、野田の醸造家は切磋琢磨を怠らず、各地の勧業博覧会で最高賞を取るなど、品質の高さが評判を呼んで生産量は着実に伸びていった。主な醸造家は、ほとんどが高梨、茂木一族だったので結束も固く、野田醤油醸造組合を組織して、明治33年(1900年)には銀行や鉄道事業も開始した。1904年にはビタミンB1発見者である鈴木梅太郎博士の指導のもと、野田醤油醸造試験所(研究所)を設置した。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大戦景気で需要が急増したが、その一方で、もうひとつの産地である銚子の醸造家も交えて競争もいっそう激化してきた。そこで、無用な競争を避けるため、1917年に高梨、茂木一族8家が合同して、野田醤油(株)を設立した。初代社長には、六代茂木七郎右衛門が就任した。当時、一族の商標は200種以上もあったが、この合同にあたって、茂木佐平次家の「亀甲萬」が統一商標になった。