1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

日本航空株式会社

1954~1972年 「ジャルパック」で夢の旅が身近な旅へ

初期のツーリストクラス用国際線機内食を再現したもの

初期のツーリストクラス用国際線機内食を再現したもの。
トレイ代わりに紙製のボックスを使用していた

国際線開設から2カ月後の1954年4月、それまでファーストクラスだけだった太平洋線に、現在のエコノミークラスに当たるツーリストクラスが新設される。
また、それまでの販売強化策が実って利用率は少しずつ上向いていき、1955年度には国際線・国内線ともに黒字に転じた。
そして1964年、海外旅行がようやく自由化となり、日本航空は、航空運賃やホテル代、手続きなどのすべてをパッケージしたホールセール商品「ジャルパック」を独自に企画し、1965年1月から販売を開始。

ジャルパック第1回会員募集の広告

ジャルパック第1回会員募集の広告(1965年)

ジャルパックの登場で海外旅行は廉価で身近なものになり、この年の日本人出国者は20万人(『出入国管理統計年報・法務省編』/返還前の沖縄行き含む)を突破することになる。こうした需要増加を背景に、70年(昭和45年)、航空企業の運営体制は、日本航空、全日本空輸、そして日本国内航空と東亜航空を合併させた新会社との3社体制になり、72年(昭和47年)にはそれぞれの事業分野が次のように定められた。日本航空が国際線と国内幹線、全日本空輸が国内幹線とローカル線と近距離チャーター線、新設された東亜国内航空が国内ローカル線である。この運営体制は「45・47体制」と呼ばれ、85年までの間、日本の航空政策の基盤とされた。

ジャンボ機就航キャンペーンの新聞広告

ジャンボ機就航キャンペーンの新聞広告(1969年)。
シアトルのボーイング工場で撮影したジャンボ1号機をJALの外装に画像修正して使用した

巨人機1機、61億円

ジャルパックによって海外旅行は身近になったが、日本航空は次代の大量高速輸送に備え、ジャンボ機の導入の機を計っていた。アメリカ・ボーイング社から、乗客定員300~500人のボーイング747(以下B747)の採用意向について打診があったのが、1965年の秋。当時、日本航空が長距離国際線の主力にしていたDC-8-55の乗客定員が最大144人であることからも、その巨大さがわかる。輸送力を増加させるには、大型機の就航はぜひとも必要であった。しかしB747は1機の予定価格が61億円を超えるため、発注を決定すればDC-8-55の24億6,000万円の約2.5倍にもなる巨額の投資であり、大きな賭けとなる。日本航空は慎重に検討を始めたが、決定に大きな影響を与えたのは当時の事実上のライバル社、パンアメリカン航空の存在である。
日本航空とまったく同じ、東京―ホノルル―アメリカ西海岸路線を運航していた同社が、早々にB747を25機発注していたのである。この巨人機に他の飛行機で対抗することが困難なのは明白なだけに、日本航空はB747の購入を決意。1970年7月1日午後9時39分、日本航空のB747第1便はホノルルに向けて東京国際空港を飛び立った。3月11日のパンアメリカン第1便の就航に遅れること112日、太平洋線では2社目のB747型機の就航であった。

board

IRマガジン2002年11-12月号 Vol.58 野村インベスター・リレーションズ

  1. 前へ
  2. 1
  3. 2
  4. 3
  5. 4
  6. 5
  7. 6
  8. 次へ

目次へ