1951年10月25日午前7時43分、マーチン202型「もく星」号は、大阪へ向けて羽田飛行場を飛び立った。乗客は36名。機体はノースウエスト航空からの借り物で、パーサー1人とスチュワーデス2人を除けば乗務員も外国人だったが、翼には日の丸、胴体には日本航空の文字がくっきりと浮かび上がっていた。これが、戦後、日本人の手によって飛び立った最初の飛行機である。
1951年10月25日、日本航空定期便の幕を開けた「もく星」号。
このマーチン202型機はノースウエスト航空からのチャーター機だった
東京・銀座にあった設立時の日本航空本社。
現在は日航ホテルが立つ
1945年8月15日の終戦以降、連合軍総司令部(GHQ)により日本の民間航空活動は全面的に禁止されていた。国内航空機輸送の再開が決定されたのは、1950年のことである。GHQは、当時日本に乗り入れていた外国航空会社7社に共同で航空会社1社を設立させ、この会社に日本の国内航空業を許可すると、日本政府に伝達した。
スチュワーデスの初代の制服
(1951年)
これに対し民間側でも、1951年1月には日本航空株式会社の創立準備事務所を開設、当時、日本商工会議所会頭だった藤山愛一郎(後に外務大臣)が発起人総代に選出された。航空会社免許の申請は同社を含め5社の競合となったが、航空庁の行政指導によって日本航空に他の4社が合流し、申請は一本化されることとなる。こうして日本航空は国内航空運送事業の営業免許を取得し、同年8月1日、戦後初の日本人の手による民間航空会社となった。会長に藤山愛一郎、社長には元日本銀行副総裁の柳田誠二郎、専務取締役に航空庁長官だった松尾静磨が就任し、本社を銀座に置いた。従業員数は役員を除きわずか39人だった。
営業免許は取得したが、運航は外国の航空会社に委託する条件だったため、日本航空はノースウエスト航空と運航委託契約を交わす。極東進出に関心を示し、日本航空の要求する機種・機数の提供を受け入れたのは同社だけだった。こうしてノースウエストからチャーターしたマーチン202型は「もく星」号と名付けられ、戦後初の日本の民間航空機として飛び立っていったのである。