1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

本田技研工業株式会社

1969~1980年 巣立ち

H1300

鈴鹿製作所で行われた「H1300」量産1号車のラインオフ式。並外れたパワーと独創的な足回りを持っていたが、フロントが重くタイヤの偏磨耗が発生し、売れ行きは振るわなかった

1969年夏。軽井沢に本田技術研究所の研究員約60人が集まって「なぜH1300は売れないのか」というテーマで議論が交わされた。空冷エンジンはできたが、十分な冷却効果を得るために機構が複雑になり、結局、重くなる。コストも高い。さらに、目前に迫っている大気汚染対策を空冷でクリアできるのか。技術者たちは、次の新車は水冷でいくべきと考えていた。しかしそのアイディアは、何度も本田から跳ね返されていた。説得に立ち上がったのは、これまで技術のことには一切口を出さなかった藤澤だった。「あなたは社長として残るか、技術者として残るか、選ぶべき時ではないですか」と藤澤は問いかけ、本田は「社長として残るよ」と答えた。若い者たちの技術に任せる、という水冷エンジンの容認だった。本田の子供たちであった技術研究所の技術者たちは、この時一人前と認められた。ひとりの天才のDNAが、ホンダという企業体に受け継がれた瞬間だった。こうしてN360に続く軽自動車ライフは、水冷エンジンを乗せて1971年6月に発売された。

H1300発売の翌年、技術研究所では新たな四輪車開発のプロジェクトがスタートしていた。再び失敗すれば、ホンダは四輪車市場からの撤退も辞さないという、背水の陣だった。世界市場を志向した車。これまでよりはるかに大きなテーマがチームに与えられていた。これ以前の車は本田のアイデアが原点となっていたが、ここから、開発、生産、販売の各メンバーがプロジェクトチームを組んで商品を生み出す新しい開発方式が始まった。決定したコンセプトは、「ユーティリティ・ミニマム(最も効率のよいサイズ、性能、経済性)」と「マン・マキシマム(十分な居住空間の確保)」。結果、当時の日本ではまだ珍しかった3ドアハッチバックの台形スタイルという独特なデザインが生まれた。シビックと名付けられたこの新車は爆発的なヒットとなり、1972年から3年連続で日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したほか、カナダでは1976年から28カ月間連続で輸入車台数第1位を記録するなど、国内外を問わずその評価は高かった。
そして1973年12月、シビックCVCCが発売された。CVCCとはホンダが開発した低公害・低燃費のエンジンで、触媒を使わずエンジンそのものの燃焼で排ガス中の大気汚染物質を抑制する。1970年にアメリカで発効された大気汚染防止のためのマスキー法は非常に厳しく、一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物の排出を従来車の10分の1にすることが義務付けられていたが、当時、業界では達成不可能とする声が大半であった。ホンダは1972年にCVCCエンジン単体でマスキー法適合第1号となり、1974年にはシビックCVCCが審査に合格、完成車としてもマスキー法適合第1号となった。

本田と藤澤

展開期に向け、創立25周年を迎えた73年10月に本田と藤澤は共に退任した

シビックCVCCが発売された1973年はホンダの創立25周年に当たる。この年の10月、本田と藤澤は2人揃って現役を引退し、終生の最高顧問に就任した。その翌年の9月に、シビックの上位機種に当たる新車の開発が開始された。「時速130kmでの快適クルーズ」を合言葉に開発が進められたこの新車は、1976年5月、1600cc3ドアハッチバックのアコードとしてデビューした。美しくシャープなスタイルを持つこの車は、発売と同時に驚異的なヒットとなり、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。初代以降、歴代のアコードは全世界で順調に売り上げを伸ばし、屋台骨としてホンダを支え続けた。同時にアコードからさまざまな上級セダンが派生し、ホンダは機種のバリエーションを拡大していった。こうして自動車メーカーとしては最後発であったホンダは、80年代には国内で3位の地位を固めた。

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IRマガジン2006年夏号 Vol.74 野村インベスター・リレーションズ

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