「HONDA」の名を冠した初の製品「ホンダA型自転車用補助エンジン」。
町工場の時代にもかかわらず、エンジン部品には量産化を想定したダイキャスト部品が使われている
(1947年11月発表)
本田のアイデアは当たった。本田技術研究所という看板が掲げられたバラックを目指し、名古屋、大阪、東京からも買い手がぞくぞくと浜松にやってきた。500基ほどあった無線機用エンジンはすぐに底を突き、本田はいよいよオリジナルエンジンの開発にとりかかる。試作第1号はエントツエンジンと呼ばれるユニークな形状のエンジンで、当時としては画期的な構造だったが、アイデアに工作精度が追いつけず実用化はされなかった。次いで開発されたのがホンダ最初の市販製品である2ストロークエンジン、ホンダA型である。燃料タンクに初めて「HONDA」と書かれたA型エンジン付き自転車は飛ぶように売れ、その波に乗って1948年9月24日、本田技研工業が創設された。
ホンダ初の本格的モーターサイクルとして1949年に登場した「ドリーム号D型」。
量産に適するチャンネルフレームが採用されている。
大きな夢を託して「ドリーム号」と命名された
「いつかは世界一の二輪車メーカーになる」と本田は創立当初から口にしていたが、その夢の実現に向けて、ホンダ初の本格的モーターサイクル第1号である「ドリーム号D型」が1949年8月に発売される。夢は動き始めたが売れ行きは芳しくなく、経営は逼迫していた。技術はあったがホンダには経営手腕が欠けていたのだ。そして、運命の邂逅が訪れる。
中島飛行機にいた竹島の紹介で、藤澤武夫が本田宗一郎を訪ねたのは1949年8月のことである。本田42歳、藤澤38歳であった。生い立ちから性格、仕事の分野までまるで違っていた2人だが、初対面で互いを気に入り、その後4回にわたってあらゆることを語り合って意気投合した。同年10月、藤澤は本田技研工業の経営に常務取締役として参加した。翌1950年3月、東京都中央区に営業所を開設、9月には東京都北区上十条に450坪の工場を構えた。
ホンダは動き始めた。