1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

本田技研工業株式会社

1928~1946年 邂逅

浜松に本田宗一郎という天才技術者がいる、と藤澤武夫が聞いたのは、藤澤が鉄鋼材のセールスマンを辞して切削工具の製作会社を立ち上げたばかりの、1942年秋のことである。取引先の中島飛行機から工具検査のため板橋の工場にやってきた竹島弘が、やはり中島飛行機にピストンリングを納入していた本田を知っていた。その後空襲が激しくなり、藤澤が工場を疎開させようと福島に機械を運んだその日、戦争が終わった。藤澤は、戦後は切削工具より建築用木材が商売になると考え、そのまま福島で製材業を始めた。
3年後の1948年夏、製材所の機械部品を買いに東京に出た藤澤は、市ヶ谷駅の近くで偶然、竹島と再会する。竹島は通産省(当時)の技官になっていた。立ち話のなかで藤澤は、あの浜松の本田が自転車用補助エンジンの製造を始めたと聞かされた。

田中亜鉛鍍金

本田宗一郎(左)と藤澤武夫。
コンビを組み、大きな夢を語り合っていた頃

本田宗一郎は、幼い頃に生まれ故郷の村でT型フォードを初めて見た時の感激が忘れられなかった。高等小学校を卒業すると静岡から東京に出て自動車修理工場のアート商会で奉公として住み込みで働き、1928年、21歳の時にのれん分けを許されてアート商会浜松支店を開業した。ここで本田は消防車やダンプカー、レーシングカーの製作など修理工場の域を超えた仕事まで次々にこなし、その非凡な才能はしだいに評判を生む。しかしやがて修理業に飽き足らなくなり、1936年、東海精機重工業を設立してピストンリングの製造に乗り出す。エンジン内部のピストンに装着するリングで毎秒数千回転の摩擦に耐えなければならず、その開発は困難を極めた。ようやく試作に成功した本田は1939年、アート商会浜松支店を弟子に譲り渡し、本格的にピストンリングの生産を開始した。今度は製造技術の面で苦労が続いたが、2年近い歳月をかけてようやくトヨタや中島飛行機に納入できるようになり、最盛期には従業員が2,000人を超えるまでに成長した。しかし1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入し、度重なる空襲で工場は破壊された。そして1945年8月15日、照りつける太陽のもとで迎えた終戦。本田は東海精機の株を株主であったトヨタにすべて売り渡し、人間休業と称して隠遁生活に入った。
そうして1年ほど経った1946年秋のある日、友人の家を訪れた本田は、そこで旧陸軍の無線機発電用エンジンと遭遇する。無線機用エンジンを使って補助エンジン付き自転車を作るというアイデアはすぐにひらめいた。世界一の二輪車メーカー、ホンダは、この瞬間に始まった。

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IRマガジン2006年夏号 Vol.74 野村インベスター・リレーションズ

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