1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

本田技研工業株式会社

1951~1969年 四輪、走り出す

1951年10月、ホンダ初の4ストロークエンジン車ドリームE型が発売された。このヒットによってホンダは飛躍のきっかけをつかみ、翌1952年4月には本社を東京都中央区に移転した。本田は次々に独創的な商品を生み出し、藤澤は当時としては画期的なダイレクトメールを駆使したこれまた独創的な手法で販売網を広げていった。なかでも驚異的なヒットとなったのが1958年8月に発売されたスーパーカブである。現在まで48年間にわたって大きなモデルチェンジもなく販売され続け、累計生産台数は2005年12月時点で5,000万台と、単一のシリーズとしては世界最多の生産台数を記録している。

カブF型

一世を風靡したヒット作「カブF型」。
藤澤武夫はこの時、日本全国の自転車店にダイレクトメールを送って、一気に自前の販売網を作り上げ、カブF型は大量生産に入った(1952年6月発売)

スーパーカブ

1958年に発表された「スーパーカブ」の雑誌広告。
使い勝手にこだわった本田宗一郎は「そば屋の出前持ちが片手で運転できるように」が口癖だった

企業として基盤が整いつつあった1960年7月、藤澤は、研究開発部門を本田技術研究所として独立させた。藤澤の狙いは、技術者たちが企業の運営に煩わされることなく研究に没頭できる環境を作ることと、もうひとつ、本田の天才技術者としてのDNAを組織として受け継いでいけるようにという、未来への布石であった。

N360

第13回東京モーターショー(1966年)で注目の的となったホンダ初の本格的乗用車「N360」。
最高出力31PS/8,500rpm、最高速度115km/hと当時の軽自動車では飛びぬけた性能を持ち、しかも価格は31.3万円と他社より10万円近く安かった

こうして体制が強化され、ホンダはいよいよ念願であった四輪へ進出していくこととなる。進出のきっかけとなったのは、1961年5月に通産省が発表した自動車行政の基本方針、後の通称・特振法案であった。これは自動車メーカーの統廃合や新規参入の制限を前提としたもので、ホンダは必要に迫られて急遽四輪車の開発にとりかかり、1963年8月に軽トラックT360を、10月にはスポーツカーS500を発売した。結局、特振法案は廃案となったが、ホンダの車は評判を呼び、四輪進出は成功を収めた。続いて1967年3月にホンダが本格的な量産車第1号として発売したのが、軽自動車業界の地図を塗り替えたといわれるN360である。5月には軽四輪乗用車届出実績5,570台を記録し、長年、軽自動車のトップを独占していたスバルを抜いてベストセラーとなった。この実績をバネに、次にホンダ初の小型乗用車を製作する。1969年5月に発売されたH1300である。本田が陣頭指揮をとり、凝りに凝って開発した空冷エンジンを持つ高性能セダンであった。「水冷エンジンは最後には水を空気で冷やすんだから、最初から空気で冷やせばいい」というのが本田の持論で、H1300はその結晶であったが、販売は振るわなかった。技術的には絶賛されたが、商品としては独創的すぎたことが原因だった。ホンダの商品開発は転機を迎えようとしていた。

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IRマガジン2006年夏号 Vol.74 野村インベスター・リレーションズ

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