三代目当主 古河虎之助
潤吉は、経営の近代化をめざして事業と家業の分離を主張していたため、古河は1897年、古河家本店を古河鉱業事務所と改称、経営組織を整備した。そして1905年3月、潤吉は合名会社に準ずる法人組織として古河鉱業会社を設立し、4月に社長に就任した。この時潤吉は、後に平民宰相と呼ばれた原敬を副社長として招いている。古河鉱業会社の設立と前後して、1906年7月、電気精銅と銅線製造の拡充のために日光電気精銅所を開設、設備の充実とともに生産も増加し、日露戦争前後の企業ブームに乗って古河は急速に勢いを増していった。しかしその前年である1905年12月、潤吉は病に倒れ、志半ばにして36歳の若さで死去。2代社長には、市兵衛の晩年の子である古河家三代目当主古河虎之助が就任した。
山田与七
交差する2つの流れ
本所溶銅所と同じく1884年に横浜の発明家、山田与七が設立した山田電線製造所は、1896年、本格的な発展を期するため横浜電線製造株式会社として組織を一新。しだいに評価が高まり、横浜でも有数の事業所として発展を続けていた。しかし電線の原料となる銅線が不足し、生産の拡大を妨げるようになってきた。当時、京浜地区で電気銅線を供給できたのは古河の本所溶銅所だけで、需要の増加に生産が追いつかなかった。そこで横浜電線製造では1904年から、毎月の使用予定高を概算し、半期ごとにまとめて購買する契約を本所溶銅所と結ぶことにした。こうして古河市兵衛と山田与七が創始した2つの事業の流れが交差し、その関係は密接なものとなっていく。古河では、こうした需要増が、1906年の日光電気精銅所開設へと結びついていったのである。
日光電気精銅所全景(1935年頃)
日光電気精銅所が開設された1906年頃は、水力発電を中心とした電気事業の著しい成長期にあり、電線業界は長距離送電用ケーブルや通信ケーブルを主軸に活況を呈し、競争が激化していた。古河でも電線事業への参入を模索していたが、その頃、横浜電線との間に提携の計画が浮上していた。1908年、古河は横浜電線に資本参加し、ケーブル事業を中核とした電線事業に進出。続いて、矢部電線、日本電線、九州電線、日本電線製造など、電線業界の有力な企業を次々に傘下に収め、電線業界で不動の地位を築き上げていった。