当時、日本の銅はほとんどが海外に輸出されていたが、産出された粗銅は品質が不安定で、海外での評価はまだまだ低かった。市兵衛はその解決のために精銅事業への進出を決意、1884年、東京の本所に本所溶銅所を開設した。溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。銅加工品の生産である。精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加工品の生産によって国内市場を広げていく。これが市兵衛の狙いだった。銅を中心とする多角経営への第一歩である。操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は日本の産銅の約3分の1に達し、日本を代表する精銅所の地位を確立した。
二代目当主 古河潤吉
1890年に、市兵衛は、欧米の最新技術を導入して足尾銅山にわが国最初の水力発電所を建設し、坑内外の電化を図った。足尾銅山は破竹の勢いでフル操業を続けていたが、その一方で、1890年前後から弊害が起きてきた。渡良瀬川沿岸に鉱毒が出始めたのである。政府は鉱毒除外予防工事命令を発し、市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだ。第3回予防工事は、使役労働者58万3,589人、支払い賃金47万円、資材42万円など、総額104万4,000円余りをかけ、180日間に及ぶ大工事となった。この大工事を終えたあと、さすがに疲弊したのか、1903年4月、市兵衛は72歳で没した。経営は二代目当主古河潤吉の手に移っていった。