古河市兵衛は、1832年、京都の岡崎に生まれ、幼名を木村巳之助といった。木村家は代々庄屋の家柄だったが零落しており、巳之助は9歳の時から奉公に出された。18歳になると名を幸助と改め、盛岡の伯父の縁で南部藩為替御用掛鴻池伊助店に勤めたが、あえなく倒産。しかし、京都小野組の番頭をしていた古河太郎左衛門が、生糸の買い付けで盛岡を訪れた際に幸助の才能を見抜いた。幸助は古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と名乗ることとなった。ここで市兵衛の商才はしだいに開花していく。市兵衛は生糸取引に敏腕を発揮し、やがて養父に代わって小野組糸店の責任者となった。その働きぶりは生糸取引にとどまらず、築地製糸場を設立し、東北各地の鉱山を経営するなど、小野組の事業拡大に大いに貢献した。しかし1874年、政府は突然、為替政策を変更し、そのあおりで小野組は倒産、市兵衛はまたも主家を失うこととなった。
無一文となった市兵衛は独立して事業経営に乗り出すことを決意、翌1875年、小野組が所有していた新潟県の草倉銅山の払い下げを受け、最初の鉱山経営に踏み切った。続いて山形県の幸生銅山、八総銅山、九十郎畑銀山などを手に入れ、1877年には栃木県の足尾銅山の買収に成功した。足尾銅山はすでに掘りつくされて廃坑同然となっていたのだが、市兵衛は必ず豊かな鉱脈があると信じて疑わず、他の鉱山で得た資金をすべてつぎ込み、設備を近代化して掘り進んだ。そして1881年と1884年、ついに大鉱脈を発見する。こうして足尾銅山は日本の産銅量の約半分を産出する宝の山となり、古河の事業を拡大させる契機となっていったのである。