松下電器産業「皇太子ご結婚慶祝番組」の新聞広告(1959年)
1955年7月1日、電通は創立55周年記念日に、社名を株式会社日本電報通信社から株式会社電通に改めた。この年から日本は高度成長期に突入し、広告は量的な発展に加え質的にも大きく変化した。1950年代初頭にアメリカで生まれたマーケティング理論の一環として、広告が位置付けられるようになったのである。吉田は1956年にアメリカの広告界を視察して強い影響を受け、マーケティング・エージェンシーへの脱皮を目指して電通にAE制を導入した。AE制とは、広告代理業が、広告主との契約で、広告主企業のひとつあるいは複数の商品の広告宣伝に関わる全計画の立案と実施のすべてを代行する方式のことである。吉田は続いて調査部門とクリエーティブ部門を再編強化し、マーケティング・エージェンシーへの変革をさらに加速させていった。
こうして吉田秀雄の時代に電通は大きく発展し、1955年から1964年の間に取扱高は149億円から877億円へと5.87倍、利益は34.1倍にも伸びた。さらに1973年の世界の広告会社年間取扱高で1位を獲得し、1988年には広告会社としては世界初の売上高1兆円を突破した。