第4代社長 吉田秀雄
1945年8月15日、電通本社ビル(現・電通銀座ビル)2階の大広間で、戦争終結を告げる昭和天皇の玉音放送を聞き終えると、「これからだ」と叫んだ男がいた。常務取締役の吉田秀雄である。吉田はその2年後の1947年、第4代社長に就任。その新任の挨拶のなかにこんな一節がある。「先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ります」(「電通報」1947年6月25日)。この言葉に吉田の基本理念が明確に示されている。事実、この後、吉田は電通を世界の電通へ成長させる一方で、広告業全体の社会的地位の向上に全力を尽くし、電通、そして広告業界の隆盛の礎をも築いていくことになる。
日本テレビの街頭テレビに集まった人々
吉田はまずスペースブローカー的広告代理業から近代的広告会社への体質改善を図るために市場の科学的な調査を強化し、続いてアメリカで発展したPRを本格的に導入。そして、1950年代、電通に大きな飛躍をもたらすことになった民放開局を実現させる。民放導入の動きは、1945年9月、東久邇内閣の「民衆的放送機関」設立に関する閣議了解に始まった。その受け皿として構想された民衆放送株式会社の設立の際に吉田は中心的役割を果たしたが、この時は占領軍の方針で時期尚早とされ、民放の実現は先送りされる。しかし、民放が電通と日本の広告界の未来を担うと確信した吉田は、その後も実現に情熱を注いだ。いよいよスタートが本決まりとなり各地で民放ラジオ局開局の動きが始まると、免許申請の手続きから番組編成、CMの作り方、営業のノウハウまで、電通は支援を惜しまなかった。こうして1951年に名古屋と大阪でラジオ局が開局し、民放時代の幕が開かれた。そして2年後の1953年、日本テレビの開局によって、時代は一挙にテレビの時代へと突入した。テレビは1955年以降の高度成長期に爆発的に普及するが、それは同時に電通の飛躍の決定的な契機となった。