1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社電通 創業者 光永星郎

1901年 2階建ての小さな借家から

有楽町の駅から晴海通りを和光のほうへ向かうと、左側に「銀座松崎」という老舗の煎餅屋がある。この一帯がまだ東京市京橋区弥左衛門町と呼ばれていた時代、この店の数軒北側に、間口二間、奥行き三間の小さな二階家があった。20世紀開幕の年である1901年(明治34年)7月1日、この二階家の1階で、社員7~8名の小さな会社が産声を上げた。6畳と2畳のわずかふた間からスタートしたこの会社が、21世紀の開幕を待たずに世界一の広告会社になろうとは、まだ誰も知る由もなかった。

事務所

現在の銀座4丁目にあった創業時の事務所。2階建ての借家で、1階の6畳と2畳が事務所、2階の4畳半と6畳が創業者光永の住居だった

電通の創業者・光永星郎は、明治の中頃に民権運動の渦中に身を投じた政治青年で、20代の時新聞記者となり、日清戦争では特派員として従軍した。そうした体験から、やがて光永は正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を思い立った。しかし、通信業単独では採算がとれそうもない。光永はまず通信業のための経営基盤を確立しようと、1901年(明治34年)7月1日、新聞社に広告を取り次ぐ日本広告株式会社を創立。冒頭に記したように、2階建ての小さな借家からのスタートだった。

生まれたばかりの日本広告が大手業者に立ち向かうためには、特別な戦略・戦術が必要であった。当時の広告取引は、新聞社の公表料金とは別の、第三者にはわからない割引料金による取引が常態化しており、非合理不透明との批判を受けていた。そこで光永は3項目の基本戦略を掲げた。第1が「利率の低廉」、つまり手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明」化、例えば臨時広告に対する業者の入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全」化で、意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供によって広告主への支援サービスを充実させること。それまでの広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。

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IRマガジン2003年3-4月号 Vol.60 野村インベスター・リレーションズ

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