9 大判・小判から一文銭まで……江戸時代のお金のしくみは?
江戸時代の、金・銀・銅の3種からなるお金の制度を「三貨制度」といいます。
豊臣秀吉にかわって天下を取った徳川家康は、貨幣制度の全国統一に乗り出し、「大判」「小判」や「一分金(いちぶきん)」といった金貨、「丁銀(ちょうぎん)」「豆板銀(まめいたぎん)」といった銀貨をつくります。
さらに、三代将軍の家光の時代には「一文銭(いちもんせん)」などの銅貨(銭貨)の鋳造がスタートしました。
ちなみにこの時代、金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と呼んでいました。金座は江戸、京都、駿府(現在の静岡)、佐渡などに、銀座は江戸、京都伏見、駿府などにそれぞれ置かれていました。現在の東京にある「銀座」という街の名前はここから来ています。
金座絵巻にみる金座での小判の製造の様子(左)と
徳川家康が「金座」で鋳造した金貨 慶長小判(1601年)金製(品位約84%)(右)
(写真出所:日本銀行金融研究所)
江戸時代の貨幣制度はユニークで、金・銀・銅という3種類のお金の制度がまったくバラバラでした。また現代の社会で円とドルを交換する相場が毎日変わっているのと同じように、金と銀の交換割合も日々変動していたということです。
金貨の場合、単位には「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」があります。一朱金が4枚で1分、一分金が4枚で1両(小判1枚分)という具合に、お金の枚数で価値を数えることができます。
これに対して銀貨の場合、単位には「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」がありますが、貨幣の枚数ではなく、「重さ」で価値を測って使われるのが特徴です(銀貨の重さ10分が1匁、重さ10000匁が1貫)。実際、使う度に天秤などで重さを測って使われていたようです。