1. 金融そもそも講座

第36回「格下げ背景の正当性」

前回は、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)社の日本長期国債格付け引き下げに関して、「一瞬市場を動かしたが、影響が長続きしなかったのはなぜか」と書き、今回取り上げると約束した。この問題は日本の国債の先行きを占う上で非常に重要なので、投資を考えている人、投資を始めたばかりの人には知っておいてほしい。

指摘は正しい

S&Pによる日本長期国債の格付け引き下げが発表になったのは2011年1月27日だったが、その発表直後に市場は敏感に反応した。為替はドル・円がドル高・円安に1円弱動いたし、日本の長期債の指標価格も敏感に下落した。つまり利回りが上昇した。それには理由がある。同社の格付け引き下げが市場の懸念の一部を反映した市場関係者に心当たりのあるものであり、さらには日本で「財政再建」に関して盛んに議論が展開されている中での発表だったからだ。

同社の指摘は、(1)日本の財政赤字は今後も拡大を続ける (2)菅首相は今年6月末までに社会保障制度と税制の抜本的な改革の基本方針を示すと述べている (3)しかし民主党政権には財政赤字の悪い側面に対処する一貫した戦略が欠けている――という点だった。この3点は日本が置かれている状況を少しでも知っている人間には否定のしようもない。日本の財政赤字の規模は間もなく1000兆円に達しようとしていて、年間GDPの約2倍の規模だ。ギリシャの例を見ても、財政赤字の規模が膨らんできた国が市場から受ける仕打ちとしては、通貨安、国債相場の下落だ。だから発表直後の市場の反応は正しかった。

筆者は、S&Pが日本の格下げに関して特に重視したのは、「財政赤字の規模」そのものよりも、それを減らす意志、そしてその実行力を日本の政治(政党、政治家)が持つかどうかだったように思う。つまり同社が挙げた理由の中では「(3)」に当たる部分だ。なぜなら、日本にはギリシャにないパワーが十分にあって、それが脚気反応(かっけはんのう/knee-jerk reaction/市場で材料が出てきたときの典型的な反応)後の円相場、日本の国債相場の戻しにつながった。本来、それをひっくり返すパワーは政治次第、政策次第なのだが、今の日本の政治は混乱し、財政赤字削減の筋書きを書き、貫徹する力が見込めない。

それは産業力

この議論を書く人があまりいないのであえて指摘するが、ひっくり返すパワーの第一は日本が持っている「産業力」である。最近の日本ではまたぞろ、「日本国債暴落論」が聞こえる。財政赤字がたまってきている日本は、その表面の数字を追うと財政事情は確かに深刻だ。それだけだったら、日本の国債相場はすでに下がっていてもよい。しかし日本がギリシャと大きく違うのは、産業力だ。ギリシャを支える産業の力が主に「観光」であり、その事情はエジプトやチュニジアなど、経済が危機に直面している中東の国とも通じる。しかし全く対照的に、日本は実に多様な産業を育ててきた。今まではなかった航空産業の分野でも、日本はMRJ(三菱リージョナルジェット/100人乗りまでの小型ジェット旅客機)を登場させ、ロケットの打ち上げ実績を積み上げて、「ロケット打ち上げ」を輸出項目の中に入れようとしている。

つまり、日本は「一時よりも落ちた」と言われながら、この厳しい円高の中でも産業のすそ野を広げているのである。ということは、例えば日本国債の価格が大幅に下がり、日本の先行きに対する懸念が高まり、それにつれて円相場が下落したら、日本の多種多様な輸出産業の競争力はそれだけで大幅に上昇するということだ。お隣の韓国を見ればよい。通貨安は輸出産業を助ける。むろん、海外に工場を作って、そこの製品を日本に輸出していたような日本のメーカーには打撃だが、今伸び盛りの東南アジアへの輸出は確実に伸びる。

かつ、円安が起きれば日本の物価にはデフレ脱却のチャンスが巡ってくる。20年にも及ぶ日本のデフレの一つの要因は、その前の日本の物価が高かったこと、人口がピークを打ったことなどの構造要因もあったが、「一貫して円が強かった」という事情があった。しかしそれが解消されれば圧力はなくなる。また、今まで日本の産業界が「日本に工場を残せない」ほどの状態にあった「海外労働賃金と日本の賃金との格差(海外の労働賃金が安いという状況)」は縮小し、工場がまた日本に戻ってくる環境も出てくる。

「日本国債暴落論」が街の本屋に並びながらもそれが起きず、S&Pが格下げをしても一瞬の国債の下げでとどまるのは、「それが円安を誘発するなら、かえって日本にとっては有利になる」という事情があるからである。日本の国債が価格暴落になるような事態では円安が起き、それが日本の輸出力を増すと指摘している本は少ないように思う。

市場はいつも複雑系

経済はあくまで“複雑系”である。むろん日本の国債がこのままの事情で展開した場合に、「下げの局面」を迎えることは確かだ。それはよく言われているように、日本人が持つ金融資産の総額(一般的には1400兆円超)に対して、日本の累積財政赤字が年々接近しているからだ。日本の過去の借金の総額は、もうすぐ1000兆円に達しようとしている。毎年、財政補てんの為に新たに発行される日本の国債(借金)は40兆円以上。ということは、今の状態を10年続ければ、日本の累積財政赤字は国民の貯金など金融資産でまかなえる分を超す。超したら海外から借金するしかなくなる。海外から借金したら、今度は高い金利を要求される。その場合には確かに国債は今までにない下げ圧力に直面する。

しかし、観光という産業力は一瞬に消えるのに対して、日本の産業力は実に多種多様で、しかも円安が進行する過程では全体としてはその力は強まる。日本の弱点はエネルギーの海外依存度が高いことだが、円安が起きて生ずる日本の輸出産業へのメリットの方が大きいだろう。むろん、エネルギー源の多様化は進めておく必要があるが。

ということは、格下げ発表後の市場の反応がすぐに消え、その後しばらくして円と日本の国債相場が戻ったのは、日本の国債市場を取り巻く環境からいえば当然だということになる。日本の国債相場がその後再び売られ基調になっているのは、「景気の改善を受けた長期債金利の世界的な上昇傾向」を受けたからである。今年に入ってからの日本の株価の上げペースの速さは、「金融商品競争」の面からも国債を不利にしている。

次回はあまり指摘されない日本の産業力を念頭に置きながら、日本の国債を取り巻く問題(格付け引き下げを含めて)を考えてみたい。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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