1. 金融そもそも講座

第82回「ミャンマーの可能性と課題 PART2」ビルマの竪琴 / 続く軍事政権 / 世界が注目する国に

前回の最後に、ミャンマーは「貧しいが豊かだ」と書いた。今回は「なぜ貧しかったのか」から始めよう。それは同国の歴史を見れば、戦後の日本のように「経済を軸に回った国ではないから」という背景が大きいと思う。

ビルマの竪琴

ミャンマーの近代の歴史は、隣国のタイや日本と違って「植民地からの出発」だ。英国の植民地だったのだ。今でも138もの民族が住んでおり、私のミャンマーの知人は「共通語というものがあるとしたら、それは英語だ」と言う。ミャンマー(当時は“ビルマ”)が英国の植民地になったのは1885年の第三次英緬(えいめん)戦争。それまでの王国が滅亡した後だ。

英国による植民地支配に終止符を打ったのは、1942年の日本軍のビルマ侵攻だった。ビルマ独立義勇軍とともに日本軍は全土を平定。しかしわずか3年後に日本は第二次世界大戦に敗北、ビルマは英国の植民地統治に逆戻りした。ビルマにおける日本の敗戦・敗走の模様を一人の日本兵の姿として描いた、竹山道雄の唯一の児童向け作品が『ビルマの竪琴』だ。雑誌「赤とんぼ」に1947年3月から1948年2月まで掲載され、その後、市川崑監督によって1956年と85年に二回も映画化された。

「この小説と映画でビルマを知っている」という日本人は多い。だから日本人のミャンマーに対するイメージや親近感は、この作品の範囲を抜け出していない面がある。しかしそれはもう60年以上も前の話だ。

続く軍事政権

一旦、英国の植民地に戻るが、戦後の「植民地独立」の機運に乗って「ビルマ連邦」として独立したのが1948年。しかし戦後の発展は日本ほど素早いものではなかった。独立から14年後の1962年にはネ・ウィン将軍がクーデターにより政権を掌握、採用した政策は社会主義的な経済政策だった。1974年の新憲法では国名が「ビルマ連邦社会主義共和国」となり“ビルマ式社会主義”が進められることになった。

今では歴史が証明した形になっているが、戦後の世界で一方の陣営をなした社会主義は、経済では“失敗の体制”だった。しかし当時は多くの国が「社会主義」を理想の国の形としていた。ビルマの隣国である中国も社会主義であり、インドはそれに近い考え方での政権運営をしていたから、ミャンマーが「社会主義」を標榜したのは理解できる。社会主義は効率を考えずに、表面的、建前的には平等な分配を優先する体制である。よって資本主義に比べて経済社会の発展・成長は遅れた。

その後の歩みも、成長に優しいものではなかった。1988年には国軍のクーデターが発生し、「国家法秩序回復評議会」が全権を掌握。翌年には英語名称を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。英語名称の変更については、面白い話がある。ビルマもミャンマーも同じビルマ語(ミャンマーにおいて最大の民族であるビルマ族の言葉)から発しており、これはもともと同じ言葉だ。しかしこの国を最初に植民地とした英国は、英語読みで「バーマ(Burma)」と発音した。それが国際的に通用し、日本では「ビルマ」と呼ばれるようになった。しかし戦後からずっとこの国の人たちは自国の呼称を「ミャンマー」と発音してきた。だから二つの名前のうちどちらかが正しく、もう一方が間違っているということはないのである。

しかしここからが「再びねじれた歴史」の始まりだ。クーデターでは統治の正統性がないので、1990年に総選挙が実施された。この選挙で勝ったのがアウンサンスーチー氏率いる「国民民主連盟」(NLD)だったが、軍事政府は政権移譲を拒否。国際化(それによる海外資本の導入)のプロセスも遅々たるものだった。1997年にASEANに正式に加入し、 2003年に「民主化のためのロードマップ」を発表、2004年には新憲法起草のための国民会議を開催。しかし、男性の2割は僧侶とされる国で、2007年には燃料高騰などに抗議する僧侶のデモが発生、国軍はこれを武力で鎮圧。翌年には新憲法草案の承認に関わる国民投票が実施された。この選挙では90%を超える賛成多数により承認されたが、軍はその完全施行を拒み続けているという状態だ。

米国はこうした動きを受けて「国民の意思を無視している軍事政権は正当な政権ではない」と主張し、ミャンマーという英語名での国名も認めない措置をとってきたし、日本なども同じ態度だった。“閉ざされた国”の印象が強まったのはこの頃で世界でも孤立した。米国などが制裁を発動したからである。

世界が注目する国に

要するにミャンマーはつい最近まで国際的には孤立した国だったといえる。しかも国内の体制は「軍事優先」「国民の権利は抑圧」だったから、経済がうまく発展するわけがない。長い期間ミャンマーは経済制裁を受けていたから、同国に当時からあった繊維などの優秀な製品の輸出もできなかった。日本が輸出で稼いだ外貨を成長のエンジンにしたことを考えれば、ミャンマーが戦後の成長軌道に乗れなかったのは当然だろう。

ミャンマーが戦後に採用した体制が妥当だったかどうかの判断はここではしない。「138もの、時には対立する民族を抱えてやむを得なかった」と言うミャンマーの人もいる。この国が置かれた微妙な国際情勢を指摘する人もいる。その後の事実を記すと、2007年にソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セイン氏が首相に就任した。ゆっくりと軍政主導の政治体制の改革が開始されることになり、2008年には前出の新憲法案についての国民投票を実施・可決されて「民主化路線」が歩みを開始する。2010年には国旗の新しいデザインが発表され、11月には新憲法に基づく総選挙を実施、アウンサンスーチー氏の軟禁は期限を迎えると発表され、実際に軟禁は解除された。

2011年3月にテイン・セイン氏はミャンマー大統領に就任。同月、国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、同年11月にアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録されている。世界がこの「アジア最後のフロンティア」に興味を持ちだすのはこの頃からだ。米国もそれまでの制裁の方針を変え、昨年秋のオバマ大統領のミャンマー訪問となった。

筆者も訪問して分かったことがある。日本ではミャンマーの政治家としてはアウンサンスーチー氏の知名度が抜群だし、人気も高い。実際にミャンマーでもその父親のアウンサン将軍とともに人気だ。では、テイン・セイン大統領が不人気かというとそうではない。彼の「自由化路線」は多くのミャンマーの人から支持を受けていた。この話はまた次の機会に書こうと思う。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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