佐吉翁が究極の発明目標としたG型自動織機が1924年(大正13年)11月に誕生し、1925年11月、第1号機が完成した。これが、事実上の株式会社豊田自動織機製作所の誕生となった。自動織機を量産する新工場の用地は刈谷の試験工場に隣接した場所に決定、1926年11月18日、登記が完了して株式会社豊田自動織機製作所が創立された。
「発明の足場」とした豊田自働織布工場の設立から、実に15年目のことである。ここである違いにお気づきの読者もいるかもしれない。それぞれにある「働」と「動」の違いである。佐吉翁は「発明の足場」となったこの工場の名前を「自動」ではなく「自働」としていたのだが、その「自働」とは何か、である。
佐吉翁の自動織機は、自働杼換装置や緯糸切断自動停止装置をはじめ自働化・保護・安全等の24に及ぶ特許があり、それらは不良品を未然に防ぐ装置であった。後工程に不良品を送らない佐吉翁の自動織機は、驚くべき生産性と品質の向上をもたらした。オートマチックに動き続けるのみならず、無駄を出さないように機械自らが止まる。機械に人間の知恵を付与するその考え方が、まさに人偏のついた「自働」なのである。
豊田喜一郎
国産自動車の開発
1923年、関東大震災で鉄道の機能が麻痺した時、復旧に重要な役割を果たしたのは自動車だった。それ以降、外国車が非常な勢いで輸入されるようになる。「一人一業」を説く佐吉翁は、息子・喜一郎に次代の事業として国産自動車の製造を勧めていた。当時、豊田自動織機製作所の常務だった喜一郎は、外国車の活躍の影で自動車製造の準備を進め、1933年9月1日、豊田自動織機製作所に自動車部門を設置、1935年大型乗用車試作第1号(A1型)が完成した。国策上の要請に応え、トラックとバスの製造にも同時に着手。1935年11月には、東京芝浦で一足先に量産体制が整ったトラックを一般公開。次いで生産が軌道に乗り始めた乗用車についても、1936年9月14日に、東京丸の内の東京府商工奨励館で大衆乗用車完成記念展覧会を開催した。
この発表会翌日の9月15日、豊田自動織機製作所は日産自動車株式会社とともに自動車製造事業法による許可会社に認定され、自動車製造事業の基盤が名実ともに確立されたのである。
国策は自動車事業発展のために急速な増産体制を要望していたが、当時、豊田自動織機製作所の事業は拡大の最中にあり、リスクの多い新規事業への大量資金の投入には慎重を要した。しかし一方で、自動車の本格的な生産を目指して準備が進められ、1937年8月27日、自動車部門が分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社が設立された。
A1型トヨタ大衆乗用車
初公開されたトヨタ・トラック