1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社豊田自動織機 始祖 豊田佐吉翁

1867~1924年 完全なる自動織機の発明・完成

豊田佐吉翁は、1867年(慶応3年)、現在の静岡県湖西市に生まれた。幼少時代から優れた資質を持ち、13歳を過ぎた頃より新聞・雑誌を読みふけり、国家や社会、人生などについて深く考えこみ、何か成しうる国家的事業は無いかと考慮を重ねる毎日だった。1885年(明治18年)、18歳の時に専売特許条例が公布され、一生を通じて発明事業に没頭することに決め、それ以来、発明を志した。そうして、最初に原動力を案出しようと永久・無限動力の発明にとりかかった。しかし、なるべく早く、国・社会のためになるものを、との思いから、当時政府の主導で機械化され大規模に行われ始めた糸紡ぎ以上に、作業負荷の高い織布こそ機械化して、大仕掛にする必要があるとの考えのもと、動力機械の発明・研究に専念した。
ただし、当時の織布業の経営実態などを考慮して、まず簡単で身近な手織機から着手し、苦労の末に1890年「豊田式木製人力織機」を発明し完成させ、初めて特許を取得した。

豊田式木鉄混製動力織機

豊田式木鉄混製動力織機

しかし、人力織機では能率に限界があることから、再び当初から目指した動力織機の研究に着手し、1896年、遂に日本で最初の動力織機である「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功した。この発明により佐吉翁の工場には、時の総理大臣をはじめ、政府高官ほか名士多数が訪れて惜しみない賛辞が送られた。なかでも大隈重信伯からは、「発明という仕事は、外国人と知能の戦争をすることである、負けをとらないようにしっかりやってくれ」と激励があり、さらに、従業員に金一封が授与されたという。

こうして32歳の佐吉翁は日本一の織機の発明者として全国に謳われるようになる。この高い生産能力をもつ動力織機は、瞬く間に広く普及し、時流に先んじた発明・完成で、日清戦争で疲弊した国家財政の建て直しという、国策の遂行に大きく貢献した。1899年12月には、三井物産より要請があって、織機の製造販売に関する契約が結ばれ、合名会社井桁商会が設立された。佐吉翁の発明・研究はさらに着々と進み、1901年10月には経糸(たていと)送出装置の特許を出願する。この送出装置は現在も使用されている装置の原型をなすもので、画期的な発明であった。その他にも織機の自動化に向けた重要発明に成功し、試験研究と創造を重ねていった。
そうして佐吉翁は「発明の足場」として、1911年(明治44年)に豊田自働織布工場(後の豊田自動織機製作所の栄生工場で、現在は産業技術記念館)を設立し、研究および発明、創造を重ねた。発明上の信念とする「創造的なものは、完全なる営業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」に基づいて、紡織一貫の大規模で長期の営業的試験、研究を操り返した。そのうえ更に、より完全なる試験を行うため、新たに愛知県刈谷町に営業的試験工場を設立した。

無停止杼換式豊田自動織機(G型)

無停止杼換式豊田自動織機(G型)

そして1924年11月、佐吉翁は遂に、世界最初で最高性能の完全なる「無停止杼換式(ひがえしき)豊田自動織機(G型)」を誕生させた。このG型自動織機は、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく、円滑に杼(ひ)を交換して緯糸(よこいと)を補給する完全なる自動織機であった。この自働織機は、従来の織機の15~20倍以上という画期的な生産性と合わせて、織物品質も大幅に向上させた。
このG型自動織機の発明・完成は、国際労働会議の決議による工場法の改正、「女子・年少者の深夜業の禁止」と世界的な不況克服の産業・経営合理化対策など、時流に先んじたものであった。国家の危機を救って、産業革命にも等しい発明を遂げさせ、広く各国の繊維産業の発展に大きく貢献し、発明を目指した佐吉翁の思想は見事に実現された。

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IRマガジン2003年夏号 Vol.62 野村インベスター・リレーションズ

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