イギリス本国での技術研修に先立って、1957年2月14日の夕刻、ICI社から図面とノウハウの解説書が羽田空港に到着した。空港で直ちに帝人と東洋レーヨンに2部ずつ渡され、帝人はその場から岩国研究所と大阪本社企画部へ空路輸送した。羽田を発った図面と解説書は翌2月15日午後、岩国研究所に到着し、早速図面の複写とノウハウの翻訳作業が開始された。図面は当初2万3,000枚と予想されていたが、実際には3,200枚余りだった。当初の予想より少なかったとはいえ、秘密保持のために外部に出すことはできず、岩国研究所に隣接する岩国工場や帝人製機の複写機を総動員して連日徹夜でコピー作業が続けられた。こうして図面とノウハウの読み込みを終え、いよいよICI社への技術研修の準備が整ったのは、3月下旬のことであった。
ICI社研修第1班
研修第1班は4月2日、羽田を発ってロンドンに向かったが、一行がICI社のウィルトン工場に到着する頃には、東洋レーヨン第1班が2~3日後には実習を終えようとしていた。合成繊維の技術に一歩も二歩も先んじていた東洋レーヨンでは、図面の到着を待たずにICI社の技術研修を決定し、早くも3月5日には第1班が出発していたのだった。そればかりか、研修の終了を待たず、ポリエステル繊維のための工場建設を早くも3月中に開始していた。帝人ではこれに遅れること5ケ月、第2班の帰国を待って、8月にようやくポリエステル繊維のための松山工場の配置図作成と機械の設計に着手したのである。しかし帝人は、東洋レーヨンに遅れまいとする気概にあふれていた。その原動力となっていたのは、やはり大屋の求心力だった。大屋は関係者に向かってこう言ったのだ。
「東洋レーヨンとうちでは10年の差がある。君たちが逆立ちしたところで東洋レーヨンよりは悪いものができるだろう。無駄金も使うだろう。期限も遅れるだろう。そんなことは当たり前だから気にするな。ビクビクせずに思い切ってやれ。だがこの10年の遅れを、君たちの努力で2、3年までに取り戻してもらいたい」
この言葉は関係者を責任の重圧から解放し、大いに勇気づけた。また、大屋は各責任者に大幅な権限を持たせ速戦即決の気風を持ち込んだ。当時の帝人はひとつの決定までに30もの判が必要といわれたほど行動力を失っていたのだ。こうして工場の建設は驚くほど順調に進み、レーヨンに比べて着工は半年ほども遅れていたが、竣工した時にその差は2カ月程度に縮まっていた。
さて、このポリエステル繊維の商品名は、消費者の混乱を避けて最大限の訴求効果をあげるため、帝人と東洋レーヨンで共同して一般から募集し、同一名を使用することとなった。その結果、冒頭の写真にあるように「テトロン」という名称に決定した。ちなみに当時は帝人の「テ」と東洋レーヨンの「ト」を取ったものと噂されたが、実際は「ポリエチレンテレフタレート繊維」という名称からきている。こうしてテトロンは1958年6月に生産が始まり、帝人はようやく再建の体制を整えたのである。その後の帝人は世界一のポリエステル繊維メーカーとして、再び一大帝国を築き上げることになる。