1957年4月、「テトロン」の名称を募集する新聞広告が掲載された。
それは、帝人復活の予告広告となった。
「諸君のなかの一部には、わが社の過去の繁栄の惰性のうえにあぐらをかいて、この幻影をいたずらに頭に描き、わが社にはまだ何かよいものがあるように考えている人がありはしないだろうか」
1959年の年頭、大屋晋三は帝人の全従業員にこう警告した。人造絹糸レーヨンによって築き上げていた一大帝国が崩壊し瀕死の状態にあった帝人は、この年、いよいよ再建に向けて動き出そうとしていた。
帝人は、その前身である鈴木商店の時代からレーヨンに目をつけ、その原料となるヴィスコースの研究からスタートして、戦時中までレーヨンの生産量では世界最大を誇る有数の繊維メーカーとして君臨していた。しかし、戦争によって日本の化学繊維工業は壊滅し、その空白の間に欧米では合成繊維が開発され、大きな成果を収めていたのである。
レーヨンの原料となるヴィスコースはパルプの溶液で、それを塩酸や硫酸などのなかに糸状に射出してレーヨンを生成する。つまりレーヨンは天然素材を原料とした化学繊維である。これに対し合成繊維は、天然素材を用いず高分子化学によって作り出される。帝人がレーヨンで一大帝国を築き上げた間に、日本の繊維メーカーも合成繊維に注目し始めていた。特に東洋レーヨンはアメリカのデュポン社が開発したナイロンに着目し、戦後はナイロン技術の導入に成功していた。他社が合成繊維を企業化し、化繊メーカーから総合化学メーカーへと移行しようとしていた時代に、帝人はいまだレーヨンの栄光に酔いしれ、過去の夢を貪っていたのだ。
東洋レーヨンがナイロンの開発に成功し、その独占の威力を発揮し始めた1953年9月期、帝人の業績はついに東洋レーヨンの後塵を拝し、以後その差は開くことはあっても縮まることはなくなっていった。帝人「レーヨン帝国」の終焉であった。そして1956年6月、もはや斜陽に立つ老大国と称された帝人に、1人の男が呼び戻された。冒頭に登場した男、大屋晋三である。