1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社リコー 創業者 市村清

1937~1965年 空前のヒット、「リコーフレックスIII」

リコーフレックスIII

大ヒット商品となった
リコーフレックスIII

創業の翌年である1937年、理研感光紙株式会社は事業の多角化を図るため、オリンピックカメラ製作所(株)と旭物産(資)を買収して旭光学工業(株)(現在の同名の会社とは無関係)を設立し、カメラ事業に進出、翌1938年、理研感光紙株式会社は理研光学工業株式会社と改称した。戦争でカメラ事業は中断したが、1950年に「リコーフレックスIII」を発売すると、空前の大ヒットとなった。市村は「ローライの10分の1の価格で売れる機種を作れれば、月産5,000台は間違いない」と断言し、カメラ業界では例がなかったベルトコンベアによる量産方式を取り入れた。当時カメラメーカーの生産力が月産数百台から1,000台だったのに対し、リコーフレックスIIIは月産1万台以上生産され、最盛期には1機種本のカメラ生産台数の50%を上回っていた。リコーフレックスIIIによって、ようやくカメラは大衆の手が届く消費財になったのである。

リコピー

「リコピー」の第1号機、リコピー101

工業用複写機から事務用複写機へ
リコーフレックスIIIの発売から数年後、カメラ拡販のために渡米していた市村は、たまたま訪問した会社で事務机の上に置かれた卓上複写機を見た。当時は設計図面や建築図面の複写が複写機の主な用途であったが、この時市村には閃くものがあった。工業用とばかり思っていた複写機は事務機として売れるのだ。そうすれば感光紙の市場はさらに拡大する――。帰国した市村は、早速卓上複写機の開発を命じた。1955年11月、リコピーの歴史を飾る第1号機「リコピー101」がデビューした。やがて訪れるオフィス・オートメーション時代の種が、こうしてまかれたのである。
理研光学は1963年4月1日に株式会社リコーと改称するのだが、その前年の1962年には新たな複写機の開発に着手していた。電子写真の技術を導入し、製本された原稿の複写を可能にした湿式EF複写機の開発である。独自のインミラーレンズを採用して小型化を図り、現在のコピー機と同じように、ガラス板上の原稿を動かすことなくコピーがとれる複写機として完成し、「電子リコピーBS-1」と名づけられ1965年9月に発売された。その頃のリコーは数々の事業の成功で気が緩んでいたのかもしれない。この年に日本経済を襲ったいわゆる「40年不況」も手伝って、経営難に陥り、ついに無配に転落してしまった。その危機を救ったのがBS-1であった。小型なうえ、手軽に毎分2枚のコピーがとれることでたちまちベストセラ-となり、後に語り継がれる「リコーの救世主」となったのである。

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IRマガジン2002年9-10月号 Vol.57 野村インベスター・リレーションズ

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