創立当時の理化学研究所とその看板
(東京都文京区)
紙の技術から、神の技術へ
聖書によると、神の姿を複製したものが人間だという。天地創造から長い時を経て、今や人間の生み出した複製技術は、遺伝子工学の分野では神の領域に踏み込もうとしている。一方、わずか70年ほど前に複製をするための紙の技術から始まり、今や神の技術に踏み込もうとしているのがリコーだ。『神の技』、すなわち、創り出されたばかりの美しい地球環境を、現在に複製しようと試みている。これまでのリコーの歴史をたどってみれば、それも必然の結果であることがわかる。リコー66年の歴史に通底するもの、それは先見性である。
「理研陽画感光紙」。世界5カ国で特許を取得したこの発明が、リコーの起源。
写真は陽画(白地に青線)と陰画(青地に白線)の例
日本の科学技術史を語るうえで欠かせない研究機関がある。1917年(大正6年)に財団法人として創設された理化学研究所である。純粋理化学の研究を目的とした機関だが、第3代所長の大河内正敏博士の時代に、研究成果を事業化するために理化学興業(株)が設立され、多くの理研製品が発売された。そのなかのひとつに、1927年に発明された「紫紺色陽画感光紙」がある。それ以前から使われていた青写真は、青地に白線の仕上がりという陰画であったが、この感光紙は白地に青い線が浮かび上がる陽画である。赤い線の陽画はあったが、青系統のほうが見やすいため各国の学者が研究しており、紫紺色陽画感光紙が初めてそれを可能にしたのだった。世界5カ国で特許をとったこの発明は、1929年に商品化され、「理研陽画感光紙」の名前で理化学興業から発売された。売れ行きは好調だったが、やがて、たったひとりで全国の売り上げの半分以上を販売する男が現れた。九州の総代理店・吉村商会の店主、市村清である。大河内所長はこの活躍を認め、市村を感光紙部門の部長に招聘した。市村はその期待に応えて感光紙事業を発展させ、1936年に理化学興業から独立、理研感光紙株式会社を設立した。これがリコーの始まりである。