東海製鐵第1冷延工場完成。中部工業地帯に冷延鋼板供給の体制確立(現名古屋製鐵所)
第1期拡充計画が完成した君津製鐵所全景
1955年に戦後の生産力水準が戦前の最高水準を超え、1960年に池田内閣が国民所得倍増計画を発表して、高度経済成長が始まった。重化学工業を中心とした設備投資や、自動車、造船、電機といった機械産業の生産拡大によって、鉄鋼需要は大幅に拡大した。この頃日本の鉄鋼業は、高炉の大型化と高炉操業技術を中心とした製鉄技術の進歩によって、出銑比・燃料比などから見ても世界最高水準に達していた。
1960年代に入ると、日本経済の国際化は急速に進められ、東京オリンピックを控えた1964年4月、IMF(国際通貨基金)8条国への移行、OECD(経済協力開発機構)への加盟が実現し、それとともに資本の自由化が課題となってきた。こうしたなかで鉄鋼業は、常に需要を先取りした生産能力の拡大や、最新技術を駆使した効率のよい生産設備の増強に力を注いでいたため、生産設備が過剰になっていた。資本自由化の実施にあたって、世界規模の厳しい競争に対応し企業体質を強めるためには、投資主体を集約して大規模な計画投資を行う以外にないという考え方がしだいに大勢を占めるようになり八幡・富士合併の機運が醸成されていった。
新日本製鐵発足、永野重雄会長、稲山嘉寛社長就任(1970年3月)
ニクソン大統領のドル防衛策発表を報じる朝日新聞(1971年8月)
1970年3月31日、八幡製鐵・富士製鐵両社の念願であった合併が実現し、新日本製鐵株式会社が発足した。粗鋼年産能力4,160万トンの規模を持ち、生産拠点として、室蘭、釜石、君津、名古屋、堺、広畑、光、八幡、さらに建設途中の大分を加えて9の製鉄所を擁することとなった。粗鋼生産でUSスチール社を抜いて自由世界第1位となる世界最大の鉄鋼会社の誕生であった。
合併の行われたこの年は、日本にとって転機となった年でもある。日本経済は拡大の一途をたどり、この年の7月まで57カ月にわたって続くいざなぎ景気の真っ只中にあった。長い好況に加え、大阪で開催された日本万国博覧会が景気を一層盛り上げ、日本の国際的地位の向上が世界の注目を浴びた。しかし万博も終盤となった1970年秋口、景気は翳りを見せ始め、不況感が急速に高まった。71年8月にはアメリカのニクソン大統領がドル防衛のためにドルと金の交換を停止、それに続くスミソニアン体制で円は1ドル360円から308円に大幅に切り上げられ、日本の輸出競争力は大きく減衰した。日本はいよいよ70年代の激動の時代に入り、高度成長を牽引した重厚長大産業もついに衰退期へと足を踏み入れていくことになる。鉄鋼業界にとっても状況は厳しく、1973年の第1次オイルショックは大きな打撃となった。新日本製鐵では1978年から1987年にかけて4度にわたる合理化計画を実施するが、1989年には釜石で第1高炉をはじめとする鉄源設備が休止となり、1886年(明治19年)以来燃え続けた高炉の火が消えた。103年にわたる鉄鋼一貫体制の歴史はここに幕を閉じた。