1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

新日本製鐵株式会社

1857~1950年 近代製鉄業の発展

そもそも八幡製鐵と富士製鐵は、同じ1本の木であった。戦前、多くの製鉄会社を合併して国策会社として設立された日本製鐵が、戦後の占領政策のなかで解体されて誕生したのが八幡製鐵と富士製鐵である。日本製鐵復元は、この時から両社の首脳陣に脈々と受け継がれてきた念願であった。新日本製鐵誕生までの日本における鉄鋼業の歴史をたどってみよう。

釜石山・田中製鐵所の高炉

1894年に、初めてコークスによる銑鉄製造に成功した釜石山・田中製鐵所の高炉

日本の近代製鉄業は、1857年(安政4年)12月1日、岩手県の釜石で日本初の洋式高炉が操業を開始したことに始まる。黒船来航の翌年のことで、日本は海防を固めるために、大砲鋳造の材料となる大量の鉄を必要としていた。それまで日本の鉄は、「たたら吹き」と呼ばれる古来の方法で砂鉄と木炭を原料として作られていたが、炉内の温度が低いために鉄は固体状態で生成される。そのため取り出す時には1回ごとに炉を壊さなければならず小規模の生産しかできなかった。これに対して洋式高炉は、鉄鉱石を原料として高温で生成するため溶融状態で取り出すことができ、連続操業が可能となった。
その後、明治新政府は釜石に官営の鉱山と製鉄所を建設するも軌道に乗らず、1885年(明治18年)、田中長兵衛という実業家が釜石鉱山を買い取る。翌年には高炉操業に成功、1887年に釜石山・田中製鐵所を創立した。そして1894年、日本で初めてコークスによる銑鉄製造を成功させ、ここに近代製鉄業の灯がともったのである。

第1高炉火入れ式

官営八幡製鐵所東田第1高炉火入れ式。日本最初の大型高炉として1901年に歴史的な火入れが行われたが、1年半後に火が落ちるという危機に直面、1904年に再開され、それ以降順調に日本の成長を支えた。

この年の7月、日清戦争が勃発するが、列強諸国の脅威はその10年ほど前から強まっており、日本では軍艦や工場の建設のために鉄鋼需要が増大していた。しかし国内生産量はきわめて少なく、鉄鋼業の発展を期待する声はしだいに熟し、日清戦争を契機にその振興が急務となった。そこで政府は官営製鉄所の建設を計画し、1897年2月、背後には筑豊炭田が控え、海陸輸送にも便利である福岡県の八幡村を建設立地に決定。同年6月に開庁、1901年2月に、日本最初の大型160トン高炉に歴史的な火入れをして、官営八幡製鐵所は操業を開始した。これが現在の新日鉄八幡製鉄所の前身である。
官営八幡製鐵所が生産を開始したとはいえ、まだまだ鋼材の供給は大半が輸入で賄われていた。特に日露戦争後の需要の増加は著しく、官営八幡製鐵所は3度にわたる拡張工事を実施したが需要増に追いつけず、民間資本による鉄鋼企業の勃興が必要となっていた。政府は1917年(大正6年)に製鉄業奨励法を制定し、営業税・所得税の免除、必要設備の輸入税の免除などの優遇措置を実施した。この優遇策と第1次世界大戦による好況で多数の製鉄会社が設立され、既存の製鉄会社は規模を拡張して民間製鉄所の生産能力は大幅に増大した。

新聞記事

1934年の日本製鐵の発足を伝える新聞記事(中外商業新報)

第1次世界大戦を経て、日本の工業水準は加速度的に高まり、工業化に欠かせない鉄鋼の需要もさらに増大した。さらに、量的にも質的にも鉄鋼の自給自足が強く望まれるようになった。しかし、官営八幡製鐵所には官営であるがゆえの種々の制約があり、かたや民間の製鉄所は中小企業が分立・対立して、いずれもこれ以上の発展は望めない状況にあった。加えて1929年の世界大恐慌に端を発する不況で生産費が割高となったことや、将来の需要増加に対応するためにも巨額の拡張資金が必要であった。こうしたことから、日本の製鉄業を強固にするためには、官営八幡製鐵所を中心として民間の製鉄所をひとつにする製鉄合同が必要だという機運が高まったのである。

1933年4月5日、政府は、日本の製鉄事業の基礎を強固にし、豊富な鉄鋼の供給を行うことを設立の趣旨として日本製鐵株式会社法を公布した。それは高度な公共性を持つ半官半民の国策会社であった。こうして1934年1月29日、官営八幡製鐵所に、輪西製鐵、釜石山、三菱製鐵、富士製鋼、九州製鋼の5社が合同して日本製鐵株式会社が発足した。まず八幡、輪西、釜石、兼二浦の各製鉄所と富士製鋼所、二瀬業所により操業を開始し、さらに同年3月に東洋製鐵、1936年に大阪製鐵が加わった。日本製鐵発足後、日本の鉄鋼需要は、主に軍需の拡大を背景にさらに上昇したが、日本製鐵は寄り合い所帯による摩擦もなく団結を固め、着々と増産を遂行して官民の期待に応えた。しかしこの大合同も、前述したように、第2次世界大戦後、GHQ(連合軍総指令部)によって過度経済力集中排除法の適用に該当するとされて分割が決定し、1950年4月1日、鉄鋼部門は八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社の2社となってそれぞれの道を歩むこととなった。

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IRマガジン2004年夏号 vol.66 野村インベスター・リレーションズ

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