合併契約書に調印する岡田儀一日本鐵板社長と田中徳松日亜製鋼社長
日新製鋼本社社屋
第2次合理化が始まった1956年頃から、鉄鋼業界では同系列メーカー間の競合や設備の二重投資などが問題とされ始めた。日亜製鋼と日本鐵板は共に八幡製鐵と縁が深く、しかも鋼を圧延しやすい形にする分塊と熱間圧延の設備は日亜製鋼にあり、熱間圧延された鋼板をさらに薄く延ばす冷間圧延設備は日本鐵板にあるという補完関係にあった。日亜製鋼呉工場の分塊設備と日本鐵板南陽工場のセンジミアミルが一体化すればステンレスで全国を席巻することも可能になる。こうして両社の合併構想が固まり、1959年4月1日、東京都中央区八丁堀の旧日本鐵板本社をそのまま本社として日新製鋼株式会社が誕生した。
1959年から1960年にかけて、鉄鋼業界は民間設備投資ブームを背景に生産拡大の一途をたどっていた。創業間もない日新製鋼の業績も目覚ましく、特にいち早くセンジミアミルを導入したステンレス部門の伸びは著しかった。そしてステンレスに続いて日新製鋼が力を注いだのが表面処理部門である。これまでの東京工場が手狭になってきたため千葉県市川市に新鋭の表面処理工場を建設し、平炉専業であった尼崎工場に最新の特殊連続亜鉛めっき設備を導入した。日新製鋼の着色亜鉛鉄板のブランド「月星カラー」を月産2,500トン生産する一貫体制がこうして整い、日新製鋼は一躍、表面処理のトップメーカーに躍り出た。そして、いよいよ次の飛躍の時期が近づいてくる。