日新製鋼の源流のひとつ、田中亜鉛鍍金の創立当初の写真。瓦葺き木造50坪の小さな工場からすべては始まった
まず、鉄が必要だった。鎖国の時代が終わり欧米列強の脅威を目の当たりにして、明治政府は近代化に躍起だった。そのための重要課題として富国強兵と殖産興業を掲げたが、軍艦を造るにも工場を造るにも鉄が欠かせず、日本を近代化させるためには自前の鉄がまず必要だった。しかしすでに近代的な高炉技術を実用化させていたヨーロッパに比べて、日本の製鉄技術の立ち遅れは著しかった。1894(明治27)年には日清戦争が勃発して鉄鋼需要はますます増大し、ここに至って政府は官営製鉄所を設置して技術を牽引し、鉄鋼産業の発展を一気に促そうと決意した。こうして1901(明治34)年2月、官営八幡製鐵所は日本初の大型160トン高炉に火入れをして、日本の鉄鋼産業の歴史が始まった。
それから7年後の1908(明治41)年、大阪市浪速区で田中亜鉛鍍金という小さなめっき工場が産声を上げた。
瓦葺き木造50坪ほどの町工場で、町の人たちが使う金物や船具などを亜鉛めっき加工するのが主な仕事だった。日露戦争の特需を背景に雨後の筍のように生まれた鉄鋼関連会社のひとつにすぎなかったこの町工場が、やがて激動の鉄鋼産業史を生き残り、21世紀には日本の鉄鋼大手5社のなかで独自のポジションを築くことになるなど、工場主の田中松之助でさえも想像もしていなかったことだろう。