1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

日新製鋼株式会社

平炉メーカーに成長

田中亜鉛鍍金はなかなかの人気で、仕事もめっきの賃加工からしだいに小型タンク、ボイラー、製氷缶、ガス管などの亜鉛めっき製品に広がっていった。1914(大正3)年には駆逐艦に使用される鋼板のめっき加工を依頼され、これを機に西区境川に230坪の分工場を建設して鋼板の亜鉛めっきに進出し、さらにこの年、日本が第1次世界大戦に参戦すると艦船用の鋼板や部品の大量受注が相次いで、田中亜鉛鍍金は町工場的な形態から企業と呼べる規模へ成長していった。

境川工場の薄物めっき風景

境川工場の薄物めっき風景

田中亜鉛鍍金だけではなかった。大戦景気のおかげで鉄鋼業界は羽振りがよく、新会社も次々に生まれていた。そんななか、日新製鋼のもうひとつの源流となる亜鉛鍍株式会社の創立に参加した佐渡島英禄が、新たな亜鉛鉄板製造企業を立ち上げようと田中亜鉛鍍金に声をかけてきた。先代を継いだ田中亜鉛鍍金の代表者田中徳松は新たな発展策を模索中で、すぐさまこの計画に共鳴し、1917(大正6)年1月、境川工場を本社とする平浪鐵板鍍金合名会社が設立され、翌年には早くも株式会社組織へ移行し、日本亜鉛鍍株式会社としてスタートを切った。

しかしこの年、1918(大正7)年に第1次世界大戦が終結すると景気の反動が訪れ、そのあおりで大戦中に乱立した中小亜鉛めっきメーカーは相次いで倒産に追い込まれていった。現在でも鉄鋼業界は景気の影響を受けやすい景気循環型業種だが、特にこの頃の亜鉛鉄板業界は需要が増加すると中小メーカーが乱立し、その結果、生産過剰となって価格の暴落を招き、多くのメーカーが脱落していくという不安定な体質を持っていた。
そうしたなかで日本亜鉛鍍は新工場の建設や新規設備投資を果敢に行い好調な業績を上げていたが、1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌に至って深刻の度を増し、海外市場の開拓に活路を求める一方、徹底した人員の合理化や本社社屋の売却など思い切った不況対策を講じて踏みとどまっていた。底なしの不況にようやく回復の兆しが見えたのは、1931年9月の満州事変で軍需が増大し始めた時である。

この頃政府は、日本の製鉄業をより強固にするためには、官営八幡製鐵所を中心として民間の製鉄所をひとつにまとめる製鉄合同が必要との見解に達し、1933年、半官半民の巨大製鉄所、日本製鐵が誕生した。日本亜鉛鍍が次の発展段階を迎えるのは、この日本製鐵から、製品に加工する前の半製品であるビレットの供給を受けるようになった時である。それまで日本亜鉛鍍は亜鉛鉄板の素材となる鋼板を輸入品で賄っていたが、1935年4月、尼崎に新工場を完成させ、ビレットを薄く延ばして鋼板に仕上げる圧延に着手し、5月には社名を日本亜鉛鍍鋼業株式会社と改称した。

1937年に日中戦争が始まると鉄鋼需要は年々増大し、各メーカーの増産によって原料が不足がちになってきた。そこで日本亜鉛鍍鋼業は原料の自給を目指して、屑鉄を利用して精錬を行う平炉を3基建設し、1938年に火入れをして鉄の精錬から製品生産までを自社で行う平炉メーカーへの脱皮を果たした。こうして生産内容が亜鉛鉄板から重工業へ完全に移行したため、1939年9月、日本亜鉛鍍鋼業は日亜製鋼株式会社へと社名を変更した。そして第2次世界大戦後、いち早く復興を果たした日亜製鋼は次の段階へと歩を進めていく。広島県呉市の旧呉海軍工廠跡地の払い下げを受けて新工場を建設、ここに21億円の巨費を投じて1953年7月、ホットストリップミルを完成させた。ホットストリップミルは鋼片を加熱して薄く延ばす熱間圧延の装置で、国内では、戦後、日本製鐵が解体して生まれた八幡製鐵が1基持っていただけの最新設備だった。こうして日亜製鋼は平炉メーカーのなかでも頭角を現し、しだいに独自のポジションを確立していった。

旧呉海軍工場跡地払い下げ直後の呉工場

旧呉海軍工場跡地払い下げ直後の呉工場

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IRマガジン2005年秋号 Vol.71 野村インベスター・リレーションズ

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