1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

森村グループ創始者 森村市左衛門

1905年~ セラミック新事業が次々と開花

衛生陶器

国産初期の衛生陶器
(東陶機器)

大倉和親は私費で研究室をつくり、苦境の中でも新製品の開発を怠らなかった。成型技術から人造石膏が生まれ、業界トップになった。大衆品向けの絵付け転写印刷、金使用の水金なども開発した。八寸皿完成の大正3年には、国産初の洋風衛生陶器を製品化。大正6年に北九州小倉に「東洋陶器」(現・東陶機器(株))を設立した。衛生陶器は関東大地震以後、東京で需要が拡大し、シェア90%にまで達した。
明治38年(1905年)には、芝浦製作所(現・(株)東芝)の要請で、15,000ボルト送電用碍子を製造。碍子は水力発電の普及とともに需要が拡大し、一時、日本陶器の収益の4割を稼いだ。そして、大正8年に市左衛門の次男・開作、和親の出資で「日本碍子」(現・日本碍子(株))を設立した。

点火プラグ

昭和9年(1934)頃の点火プラグ(日本特殊陶業)

昭和恐慌下の昭和5年(1930年)には、自動車・航空機の点火プラグを開発、昭和11年に江副孫右衛門を社長に「日本特殊陶業(株)」を設立し、森村豊の遺児・勇が取締役に就いた。
さらに、大倉和親は常滑の伊奈製陶所(現・(株)イナックス)を資金援助して、近代陶管、タイルの生産を開始する。これら5社がそれぞれの業界で今日もトップ企業を維持しているのは、まさに驚異である。

各種陶管

各種陶管(イナックス)

森村組も順調だった。陶器だけでなく、ミキモトの真珠、工芸品に手を広げて黒字を続けていた。大正6年(1917年)には、森村開作が社長に就任したが、第一次世界大戦後の不況と昭和恐慌により、森村組の業務は日本陶器に合流し、明治30年創立の森村銀行も三菱銀行に吸収された。ニューヨークの「森村ブラザーズ」も、昭和16年(1941年)の日米開戦で資産を凍結されて命脈を絶たれた。戦後は、森村商事(株)と改名し、陶器材料の輸入販売や不動産事業などを行っている。

各種陶管

創業の頃のピン碍子の仕上げ
(日本碍子)

森村市左衛門は、大正8年(1919年)に81歳で歿した。『國利民福』を志した市左衛門の業績は多岐にわたる。明治15年(1882年)に日銀監事に任命され、松方内閣の時に金本位制を主張して勇名をはせた。明治21年には日本商工会議所創設に参加した。富士製紙の設立や富士紡績の再建でも無償で力を尽くした。富士紡が、せめて工場前の橋に「森村橋」と命名させてくれと頼んだというエピソードが伝わっている。
教育面では、日本陶器に夜学を設けて従業員教育を行い、豊、明六を記念する「森村豊明会」のもと、日本女子大や三輪田学園、高千穂学園への援助、森村学園の創立など女性教育を進め、慶應、早稲田、東京工業、北里研究所にも寄付を行った。しかし、桂太郎総理の要請による済生会への寄付は断っているのが面目躍如である。

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IRマガジン1999年4-5月号 Vol.37 野村インベスター・リレーションズ

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