名古屋駅から大阪方向に出発してすぐ、右手の車窓に「Noritake」の文字が見える。日本陶器(現・(株)ノリタケカンパニーリミテド)発祥の地で、敷地内には煉瓦づくりの創業当時の工場も保存されている。15年ほど前、この地にドーム球場の構想が生まれたとき、この煉瓦工場の下から日本陶器創立の宣誓文を記した陶板が掘り起こされた。
森村市左衛門の『國利民福』の思想の原点は、幕末・維新に重なる。彼は、天保10年(1839年)に江戸・京橋の馬具・袋物商の長男・市太郎として生まれた。六代目の誕生である。各藩御用をつとめる商売は順調だったが、やがて激動の時代を迎えようとしていた。
日米和親条約が結ばれた翌年の安政2年(1855年)、江戸をマグニチュード6.9の地震が襲った。死者1万人にのぼる安政大地震である。京橋も焼き尽くされ、森村家は灰盡に帰した。16歳の市太郎は、人夫、露店商で一家を支えて店を再建した。安政6年に横浜が開港されると、市太郎は片道32kmの道のりを往復して、横浜でラシャ、時計などを仕入れて薄利で売った。やがて、大名屋敷から声がかかるようになり、中津藩(大分県)に出入りするうち、福沢諭吉の存在を知った。
万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約に批准する使節団を派遣することになり、米国への贈答品の注文が森村の店に舞い込んだ。使節団が米国で使用する通貨への両替も頼まれたので、市太郎が横浜の両替所で交渉したが、日本の小判(金)とメキシコ銀貨の交換レートは1:2だった。国際レートは1:4だったから外国商人はぼろ儲けである。「これでは日本の金がすべて流出してしまう」と福沢に訴えると、「貿易で取り戻すしかない」という。市太郎はこの言葉を胸に刻んで生きることになる。
文久2年(1862年)、幕府は皇女和宮の降嫁を得て公武合体に延命を託すが、市太郎は「時勢は追々変転せんとし、徳川の勢力しだいに衰う」と記している。この頃、森村商店は騎兵用の鞍を製作し、土佐藩士板垣退助の勧めもあって、各藩に納めている。武器や軍服の製造も始めた。