明治27年から製造を始めた洋食器は苦戦だった。純白が求められるのに日本の磁器は灰色の「でもしろ」(これでも白)だった。光沢もなく熱にも弱かった。そこで、東京工業学校(現・東京工業大学)から飛鳥井孝太郎が入社し、名古屋支店で研究を開始した。この事業は大倉孫兵衛の資金で行われたが、失敗の連続で、やむなく飛鳥井は欧州に渡ったが、どの工場でも粘土の混合や焼成温度は秘中の秘だから大して成果はあがらなかった。
そんなおり、市左衛門に不幸が重なった。明治30年に明六が死亡した。豊も同年に胃がんで死去したのだ。失意の底にある市左衛門に対して、大倉孫兵衛と長男の和親の方も辛かった。明治35年、金盛絵付け技術と交換に欧州の工場見学が認められ、ドイツ粘土研究所の分析で天草陶石が最適であることもわかった。ようやく、明治36年(1903年)に純白の生地が完成した。
明治37年、欧州から製陶機械や石炭窯を導入し、名古屋駅に近い鷹羽村則武に「日本陶器合名会社」が創立された。そして、煉瓦づくりの工場の建設にあたって、冒頭にある出資者の陶板が市左衛門の手で埋められた。
創業当時の日本陶器
日本陶器は森村組から分離され、大倉和親が代表者になった。和親は工場内に家を建てて陣頭指揮をしたが、洋食器の歩留まりはあがらず、損失は増える一方だった。ようやく明治末年になって、思うような製品ができるようになり、創業の地にちなんだ「ノリタケ」ブランドは、輸出だけでなく、皇室、外務省、海軍、帝国ホテル、精養軒に採用され、三越でも扱われて何とか黒字化した。
ただ、輸出では八寸皿のディナープレートが求められたが、八寸の大皿では中央が垂れてしまうので、どうしても市左衛門が出荷を承知しない。そこで村井が伊勢本一郎を日本陶器に送りこんだ。伊勢は、東京工業学校で飛鳥井の後輩だった江副孫右衛門を開発責任者に据えた。このため、飛鳥井は退社を余儀なくされるが、市左衛門の励ましに発奮して、名古屋製陶(現・鳴海製陶(株))に移って後にノリタケのライバルとなる。
一方、江副は欧州に渡って原料の改良につとめ、さらにこれまで中央が垂れないように中央の粘土を薄くしていたのを、逆に中央を厚くする逆転の発想で垂れを抑えることに成功した。すでに、大正3年(1914年)と元号も変わっており、純白を志して20年後のことだった。
同年、第一次世界大戦が勃発し、欧州からの輸入が途絶した米国からディナーセットの注文が殺到、大正5年に1万組、同10年10万組と輸出が激増し、やがて、欧州、アジアにも「ノリタケ」が広がっていった。