1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

森村グループ創始者 森村市左衛門

1876~1894年 森村組、ニューヨークに進出

時代は明治に移った。市太郎は塩問屋の談合に義憤を感じて製塩業を始めた。養蚕、銅山、漁業にも手を広げたが、ことごとく失敗した。この苦境を救ったのは本業の馬具である。木戸孝允、山県有朋に評価され陸軍に鞍や軍服を納めることができた。しかし、役人に賄賂を要求されたことに激怒して軍御用達を辞してしまった。市太郎は銀座にテーラーを開き、かねて計画していた外国貿易の準備を始めた。

森村ブラザース

ニューヨーク六番街238番館の創立当初の「森村ブラザース」

明治9年(1876年)に、慶應義塾に学んだ弟・豊と森村組を創立した。そして、豊は、福沢諭吉の紹介により、輸入商の佐藤百太郎(順天堂の創設者の長男)の世話で、後に生糸貿易で名をなす新井領一郎、丸善店員の鈴木東一、三井組の伊達忠七とともにニューヨークに旅立った。市太郎37歳、豊22歳のことであった。
同年9月、豊は佐藤、伊達と共同で「日之出商会」を設立し、市太郎が日本で蒔絵、印籠などを調達して米国に送った。横浜通いで鍛えた市太郎の眼は確かで、名古屋で3円で仕入れた花生が10倍で売れた。2年後、明治11年、豊は単独で六番街238番館に「森村ブラザーズ」を設立した。市太郎も日本橋で絵草紙屋を営む義弟の大倉孫兵衛を引き入れて、北海道から京都、大阪まで足を延ばして精力的に仕入れを行った。
もちろん、政府に保護された商売敵も多く、市太郎は福沢に弱音を吐いて「へこたれるな」と励まされることもあった。ともかく、森村組は「独立自営」を貫き、信用第一で顧客を増やしていった。ある時、現地の店員が間違って商品を倍の値段で売ってしまった。豊は、「相手は納得して買ったのだから仕方がない」という店員をたしなめ、金を返させた。この一件で店員も客も「日本人は信用できる」と感激したという。

森村組

森村組を率いた人々。前列左から大倉孫兵衛、森村市左衛門、広瀬実栄、後列左から森村開作(市左衛門の次男)、村井保固、大蔵和親(孫兵衛の長男)

業容の拡大とともに、森村組の将来を担う社員が次々と入社してきた。慶應義塾を出た村井保固は、あえて弱小の森村組に入社した。明治12年にニューヨークに渡り、避暑地への出張店舗、卸業への転換などを献策した。広瀬実栄は土佐藩の重臣の子だが、板垣とともに新政府を辞した後に市太郎に請われて入社し、後に森村銀行の初代頭取になる。市太郎の長男の明六も慶應義塾を出てニューヨークに渡った。
卸事業に転じた森村組は、明治26年には輸出高が25万円(現在の25億円ほど)に達した。主力は陶磁器で、瀬戸、京などから生地を購入し、専属の絵付工場で絵付けをして出荷した。手描きの“金盛絵付け”の花瓶などが評判を呼び、瀬戸の窯元に依頼してコーヒーカップの製造も始めた。やがて、生地、絵付けともに名古屋に集約し、欧州にならって分業方式の生産も導入した。明治27年、市太郎は六代目市左衛門を襲名した。

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IRマガジン1999年4-5月号 Vol.37 野村インベスター・リレーションズ

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