苅田発電所建設のためにアメリカから送られてきた資料の一部
電力の安定供給のため、上椎葉ダムに続いてさらなる電源開発が必要であった。火力か、他の電力会社に歩調を合わせて水力に大きく舵を切るか。この時、九州電力社長の佐藤篤二郎にはひとつの信念があった。「九州の石炭産出量は全国の60%以上だ。われわれはこれまで培った火力技術を活かして、全国に先駆けて生産性の高い火力発電所を建設する」。そんな折、佐藤はアメリカで高効率の火力発電プラントが開発されているという話を耳にして、決断を下した。「最新鋭火力発電プラントをアメリカから導入する」。こうして苅田発電所の建設がスタートした。
当初、輸入するプラントは容量6万6,000kW、非再熱式の仕様とし、アメリカ側メーカーと商談の準備が進められた。しかしアメリカではすでに容量7万5,000kW、再熱式の最新鋭プラントが稼働していた。仕様は変更され、最新鋭プラントの輸入が決定した。プラントを輸入するということは、アメリカでの発電所運営の手法・考え方などすべての導入を意味する。建設の方法をはじめ何もかもがこれまでとは違っていた。日本では気にもとめなかった清掃の手順、外壁のペンキ塗装の頻度までもが事細かに指示され、マニュアル化されていた。
1954年11月5日、建設所起工式が行われ、建設資材や設備がアメリカから続々と送られてきた。完成期限は1956年の3月。建設期間はわずか1年4カ月しかなかった。プラントの先行工事が急ピッチで進められるなか、ようやくタービンが送られてきた。船上のタービンを見て技術者たちは驚いた。現場でのロスをなくすため、巨大なタービンは組み立てられた状態ではるばる太平洋を渡ってきたのだった。タービン据付のため先行して行われたアンカーボルト工事は、誤差1.5mm以内という厳しい精度を要求されるものだったが、タービンとアンカーボルトの位置関係は寸分の狂いもなくピタリと収まった。その後もボイラ、タービン、電気など各部署で難工事が続き、1年はあっという間に過ぎ去った。完成期限が刻々と近づき、苅田発電所は営業運転に入るための最後の難関、国の竣工検査を迎えることとなった。合格しなければ営業運転ができない。検査日は1956年3月31日、期限ぎりぎりである。午前7時50分、検査が始まった。最大出力7万5,000kWの負荷を4段階に分けての検査、タービン発電機負荷遮断試験である。4分の3まで負荷をかけた段階で、タービンの回転数は予想を超え3,935回転まで上昇し、限界ぎりぎりとなっていた。検査は失敗であった。制御装置の設定がずれているとしか考えられない。再熱調整弁の制御装置を点検してみると、予想通りであった。設定を調整し直し、再度試験が開始された。7万5,000kW全負荷をかけ終え、遮断した。タービンの回転速度は上昇を続け3,954回転に達した。許容限度までもうわずかしかない。次の瞬間、回転数は徐々に下降を始めた。非常停止装置は作動しない。成功の瞬間であった。午後11時40分、検査は完了。日付は4月1日になろうとしていた。まさに期限ぎりぎりの完成であった。戦後第1号の世界水準の火力発電所が、こうして営業運転を開始した。
完成当時の苅田発電所全景
現在の苅田発電所(出力73.5万kW)
苅田で培った技術は、その後の発電所建設などに受け継がれていくと同時に、苅田より効率の良い発電所に主役を譲っていった。現在苅田では、廃止された新1号機の一部設備を利用して世界最大の加圧流動床複合発電(PFBC)を開発し運転している。このPFBCは多くの新しい技術を導入したことにより、社内外で高い評価を受けている。