1945年の終戦以来米軍の統治下にあった日本は、1951年のサンフランシスコ講和条約によって占領状態を脱し、独立を回復した。
この年わが国では、昭和30年代に始まる高度経済成長を予見するかのように、次々に明るい種子が蒔かれていった。1月3日にはNHKのラジオで第1回紅白歌合戦が放送され、大きな反響を呼んだ。後にテレビ黎明期のヒーローとなる力道山が相撲界からプロレスに転向し、試合を行った。雑誌『少年』では手塚治虫が原子力の平和利用を願って生み出したヒーロー、アトムがデビューを飾った。こうした新しい活力を支えるかのように、この年、日本では新たなエネルギーの胎動が起こっていた。戦時中、国家管理となっていた電力事業が、GHQ(連合国軍総司令部)の要求により民営化され、5月1日、全国を9ブロックに分けた発送配電一貫の電力会社に再編されてスタートを切った。終戦から6年、日本のエネルギー源がいよいよ民間の力となって動き始めたのである。
この電力事業再編の過程で「電力の鬼」と呼ばれ、日本の電力事業の基盤形成に生涯を賭けた松永安左エ門は、九州は壱岐島石田村院通寺浦の出身である。安左エ門輩出の地である九州を支える九州電力が、水力、火力などさまざまな分野において先駆者としての試練を乗り越えてきたことは、必然であったのかもしれない。
九州電力は、この電力事業の再編によって、九州一円に電力を供給する発送配電一貫の新会社として設立された。当時の日本は、1950年6月に起こった朝鮮戦争による特需に沸き、輸出産業を中心に産業全体が顕著な成長を示し、10月には鉱工業生産が戦前の水準を突破し、産業基盤を支える電力の拡充が最優先課題となっていた。しかし戦争による電源設備の荒廃や電源開発の遅れによって電気の供給は慢性的に不足し、本格的な復興を行うためには、新たな電源開発による電気の安定供給が急務であった。