日本の発電は水力が主体の「水主火従」であったが、九州は離島が多いこともあり、発電の多くを火力に頼る「火主水従」の構造となっていた。しかし電力需要の急増に対応して電気を安定供給するためには、大容量の水力発電所が絶対的に必要であった。この時、巨大ダム建設の構想はすでにスタートを切っていた。九州電力設立の5年前のことである。
上椎葉ダム建設予定地の遠景
終戦の翌年1946年、九州山脈に囲まれた宮崎県上椎葉の山中で、九州電力の前身である日本発送電(株)の土木部員によって測量が開始された。上椎葉のある耳川水系は宮崎県内でも有数の多雨地帯にあり、豊富な水量と地形に恵まれ昭和初期から水力発電所が建設されていた。1950年、日本発送電はアメリカの海外技術顧問団(O・C・I)に開発構想計画について打診した。当初、技術的に信頼があり実績もあった「重力式コンクリートダム」が計画されていたが、現地を調査したO・C・Iからの勧告は「アーチ式ダム」の構想であった。上椎葉の地形がアーチ式ダムに適しているうえ、コンクリート量の低減など、工期短縮と工事費節約効果が大きいとの判断だった。しかし日本では地盤構造が複雑で、流域面積に比して降水量が多いなどの理由から、本格的なアーチ式ダムは一度も建設されていなかった。上椎葉に日本初のアーチ式ダム建設となると、設計、技術、施工、すべてを一から学ばなければならない。しかし、後に九州電力初代社長となる佐藤篤二郎は悩みぬいた末、意を決した。九州には水力発電が必要なのだ。いつかは誰かが先駆者にならなければならない。かくして日本初となる巨大アーチ式ダムの建設計画にゴーサインが出された。この間、1951年5月1日に電力再編が行われ、ダム建設プロジェクトは九州電力に引き継がれた。
戦後の荒廃のなかで、1日も早く電力基盤を回復し産業の復興に貢献するために、1955年に九州電力が完成させた日本初のアーチ式ダム、上椎葉(かみしいば)発電所。
ここで培われた技術は後に黒四ダムに引き継がれていった
設計が始まると、九州電力とO・C・Iのスタッフの間でたびたび白熱した議論が交わされた。特にダム本体と同様に重要な構造物である余水吐について、O・C・Iは中央溢流型を提案したが、九州電力側は安全性の面からスキージャンプ式を採用、ダム本体の安定性を評価する安全率についても試行錯誤の末、九州電力独自案が採用されることになった。こうして1952年秋、すべての解析が終わり上椎葉ダムの設計が完了し、建設のスタートしたのである。40km離れた延岡から、日夜、リフトによって大量のセメントが運び込まれ、現場は初めて直面する課題と格闘する日々であった。例えばコンクリートは打設後に高い熱を持ち、放っておけばひび割れを起こす。これを解決するために、打設前に各ブロックに細い管を敷設し冷却水を通すパイプクーリングを採用し、収縮によって発生する各ブロックの隙間はグラウトによって埋められた。技術者たちは一つひとつ課題をクリアし、1954年中には中間湛水・一部発電という見通しが立った。しかし同年9月13日、折からの台風12号が九州地方を襲い、上椎葉に700mmを超える豪雨をもたらした。水は水路に流入したうえ、完成前のダムの許容水量をオーバー、完成間際の発電所に冠水の危機が迫った。発電機は水浸しになり、一からやり直しとなる箇所も多々発生したが、幸いダムは無事だった。皮肉にもこの不測の事態がダムの安全性を確認させることとなったのである。早速、不眠不休の復旧工事が開始され、復旧に要した費用は当時の金額で4億円。工期は半年の遅れとなった。1955年5月、ダムは完成、湛水が開始された。完成まで5年。延べ500万人を超える労働力と総工費140億円を費やす一大プロジェクトであった。上椎葉で切り開かれた日本初のアーチ式ダムの技術は、その後、数多くのダム建設に引き継がれていった。なかでも1963年に完成した関西電力の黒部川第四ダムは、その集大成といえるものとなった。
1963年に運転を開始した九州最大のアーチ式ダム、一ツ瀬発電所(出力18万kW)
上椎葉大学──現在でもダム技術者は敬意を込めてそう言う。上椎葉ダム建設プロジェクトで磨かれた技術と人材の影響力、さらに上椎葉発電所の運用を通じて多くのエキスパートを育てた実績を評価しての一言である。