合資会社長瀬商会は、祐三郎が総務、販売、経理を、常一が研究開発、生産、工場管理を分担してスタートした。兄の堅実経営を踏襲して「石鹸第一主義」を掲げ、操業開始したリバー・ブラザーズ社の『ベルベット石鹸』に真っ向から挑んだ。
元号が大正に変わった3年(1914年)、欧州で第一次世界大戦が勃発すると、日本に好景気が到来するとともに輸入品が途絶したことで、国産品に追い風が吹く。大正6年には、現在の東京工場となる吾嬬町工場の建設が始まった。ところが、主要設備を請地工場から移転し終えた大正12年8月31日の翌日、突然の大地震が東京を襲った。関東大震災である。下町一帯は猛火に包まれ、死者10万人におよぶ大惨事となったが、幸い、吾嬬町工場は建物の一部倒壊だけで火災を免れた。石鹸は緊急物資である。社員は総出で復旧にあたり、9月20日には生産再開にこぎつけることができた。
翌年1月には吾嬬町工場内にグリセリン精製工場が竣工した。グリセリンはダイナマイト用に需要が急増し、大正13年にわずか33円だった売り上げが、翌年には11万円に急増した。前後してコプラ窄油工場も完成した。
この間、祐三郎は、大正5年に工場内に学習所を設けて工員教育を行い、共済制度も手厚く整備するなど、近代化を進めていった。ただし、店舗については伝統的な徒弟制度を継続した。そして、大阪倉庫事務所の新設など着々と事業を拡大し、大正13年の売上高は276万円、利益は実に55万円を記録している。