明治23年(1890年)に発売した桐箱入り花王石鹸。(復刻)
商標・包装デザインも初代長瀬富郎の手になる。左は翁愛用の調合帳。背景は当時の特約店に掲げた看板。
狙いは当たった。桐箱入り花王石鹸は贈答用に重宝されたのだ。石鹸は今に至るまで中元・歳暮の主役のひとつとなっている。むろん、その成功は販路拡大と宣伝に力を注いだ結果である。当時は、上方と関東とは独立した商圏になっていたが、富郎は関東に特約店を広げるだけでなく、大阪にも特約店を置いた。この大阪の特約店が5年後に花王石鹸の44%を扱うまでに発展するのである。また、富郎は、100ダース以上1ダース0.5銭、1,000ダース以上同1.5銭などと割り戻し(ボリューム・ディスカウント)を採用した。景品販売にも着目し、風呂敷、うちわなどを配布している。
宣伝については、アメリカ人ジャーナリストに欧米の化粧品宣伝の実情を聞き、全国の新聞に積極的に広告を掲載した。広告コピーからレイアウトまですべて富郎がこなしたことはいうまでもない。鉄道沿線に設置する野立看板の広告利用も花王が最初とされる。鉄道網が全国に広がると、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に野立看板を立てていった。劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布なども精力的に行っている。
また、瀬戸の指導のもと、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始した。さらに、化粧水『二八水』を明治33年に発売した。これが花王化粧品の嚆矢ということになろう。