富郎は、若松屋での経験を生かし、伊能商店ですぐに頭角をあらわしたが、独立するために1年余で辞した。郷里に戻って資金を工面して、明治20年(1887年)に馬喰町の裏通りに間口2間の「長瀬商店」を開き、石鹸と文房具の卸売を始めた。馬喰町の升屋旅館の三女なかと結婚もした。商売は順調で、帽子、ゴム製品など、商品の扱いも広げ、1年後には表通りに店を構えることができた。この時すでに、富郎は、詳細な損益計算書を作成している。
村田亀太郎の工場当時の鹸化釜
(ブロンズ・花王「清潔と生活」小博物館蔵)
長瀬商店では、米国・コルゲート社の石鹸のほか国産石鹸も扱ったが、需要の広がりとともに粗悪品に悩まされるようになる。当時の商習慣で、返品は問屋でかぶるほかなかったのである。
そこで、自ら石鹸製造に乗り出すことにした。富郎は国産品の悪評を払拭するため、敢えて高級な洗顔用化粧石鹸をめざした。ちょうど仕入れ先の石鹸職人村田亀太郎が独立したので、長瀬商店専属として廉価品の製造から始めた。そして、知人の薬剤師瀬戸末吉に分析の基礎を学び、原料や香料の調合に没頭する日々が続いた。
明治23年、試作開始から1年半で遂に製品は完成した。能書きに高峰壌吉博士(後にジアスターゼ発見で世界的化学者になる)の分析結果を記載するなど品質には絶対の自信があった。富郎は高級舶来品のようにブランドをつけて売り出すことを考えていた。商標を"顔"に通じる「花王」(出願時は「香王」)とし、半月印の口から花王石鹸の文字が出る図案も自ら描いた。製品はろう紙で包み、能書きを添えて花王マークを印刷した上質紙で巻いた。そして、桐箱に3個を納めて35銭で販売したのである。コルゲート石鹸でさえダース28銭だったから、飛び抜けて高価な商品だった。