近鉄養老線の西大垣の駅は昔ながらの面影を残した駅だ。周辺には、昔この辺りが繊維工業で栄えた頃に作られた工場や会社が並ぶ。とはいえ、今では、敷地の一部を大型店に貸し出している所もあり、時計の針がゆっくりと進んでいるかのような地方都市の風景だ。
しかし、駅の目の前に広がる工場の周りだけは、時計の針の進む速度が少し違っている。
その工場こそイビデンのパッケージ基板工場である。イビデンはここを拠点に世界とつながり、最新鋭のパッケージ基板を供給している。
1912年当時、何もなかった大垣の発展を願って、最初に産声をあげた会社がイビデンの前身となった。それから約90年の歳月が流れ、一番古いはずの企業がどこよりも最先端を走っている。イビデンを知るためのキーワードは、そう、「変転」である。
発電に使われた国産第1号の縦軸水車
大垣の産業復興のために
イビデン創業の地・大垣は、江戸時代以来、譜代大名戸田氏の城下町として、また、揖斐川を通じて東海道の要衝桑名と結ばれる水運の商業地として繁栄していた。
しかし明治維新後の廃藩置県によって岐阜県の政治の中心は岐阜市に移り、1889年(明治22年)に東海道線が全線開通すると、鉄道輸送は大垣を素通りするようになった。加えて、揖斐川が氾濫してたびたび大洪水に襲われ、1900年(明治33年)頃には往時の面影はなく、大垣はすっかりさびれてしまった。
しかし、1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発して起業ブームが起こり、電力需要の増大に伴って水力電気事業が急激に発展した。大垣の行く末に危機感を抱いていた地元の有力者たちはここに着目する。それまで水害を起こしていた揖斐川に水力発電所を作り、まず各産業にエネルギーを送る電力会社を設立して、大企業の工場誘致を積極的に進めようと目論んだのだ。しかし日露戦争が終わるや、不況が訪れ、資金難でなかなか会社設立のめどが立たないうえ、経営の適任者も見つからなかった。何年かの紆余曲折を経て、ようやく東京で、京浜電鉄などの経営で名を馳せていた大垣出身の実業家、立川勇次郎との接触に成功し、経営をゆだねることとなったのが1912年(大正元年)11月25日。イビデンの前身、揖斐川電力株式会社が産声をあげた瞬間である。