工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増えるに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
3台の5馬力電動機はすべて現存している。なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。
その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。
これをもって日立製作所の創業とする。