明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。
当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
日鉱記念館に展示された日立製作所製の電動機
日鋼鉱念館には、創業時の久原本部、当時の鉱山機械、鉱石や製錬の歴史、現代の技術などが総合展示されている。
小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえであった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
明治37年、浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなかった。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き・・・我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。