三菱石油によって1961年に開設された水島製油所
1956年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言し、日本の経済成長は目覚ましい発展を遂げた。事実、1955年から1961年の間に国民総生産は70%増え、29兆円に達した。なかでも重化学工業部門の伸びが著しく、エネルギー需要は急増した。また、石油化学コンビナートが誕生し、石炭から石油へのエネルギー革命が進みつつあった。
従来、日本政府がとってきたエネルギー政策は、石炭と電力を中心に国内資源の開発利用を主流としたもので、輸入依存度の高い石油は補完的エネルギーと考えられていた。しかし、1958年の不況は、特に石炭業界に深刻な影響を及ぼし、エネルギー需給の構造的変化はしだいに周知のものとなっていった。1960年に池田内閣が発表した国民所得倍増計画では、経済性を考えたエネルギーの選択と消費者による自由選択が強調され、石油を中心としたエネルギー政策への転換が明瞭になった。1961年の1次エネルギー供給構成比の実績は、石炭と石油が共に39.9%と肩を並べ、石油時代の到来を印象づけた。
50円切手に登場した日本石油の巨大タンカー日精丸(1976年)
1973年10月に勃発した第4次中東戦争を契機に、ペルシャ湾岸産油6カ国は原油公示価格の70%値上げを一方的に宣言、翌年1月にも値上げされ、原油価格が4倍近くに急騰する第1次石油危機が起こった。原油の供給削減と大幅値上げにより、日本では1973年11月から74年2月までのわずか4カ月間で卸売物価が21%強、消費者物価が13%弱も上昇、狂乱物価が現出した。75年には落ち着きを取り戻したが、石油各社が受けた打撃は大きかった。「便乗値上げ」のレッテルを貼られ、原油の高騰分を製品価格に転嫁させることが許されず、多大な損失を受けたのである。
5年後の1978年末、イランは石油労働者のストライキを契機に原油輸出を停止し、メジャーは日本の石油会社へ原油供給の削減を通告。第2次石油危機が発生した。日本はイラン原油への依存度が13%程度と低く、石油備蓄も91日分確保していたため供給に不安はなかったが、エネルギーの石油に対する依存度の高さと省エネルギーの必要性が浮き彫りになった。翌1979年6月に日本で初めて開催されたサミットでは、石油消費の抑制と他エネルギーの開発を決議し、国別の石油輸入目標を決めた。政府はこれを受け入れて同年「省エネルギー法」を施行し、省エネルギーと石油代替エネルギーの開発が急務となった。これまで石油業界は原油処理能力の増設を目指してきたが、ここへきて一転、過剰な能力の縮減が課題となった。産業構造が根本的に変わろうとしていた。