1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

新日本石油株式会社 初代社長 内藤久寛

1859~1895年 石油産業の勃興と日本石油の創業

1853年(嘉永6年)7月、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が来航し、日本の鎖国は解かれた。徳川幕府の崩壊は進み、やがて日本は新たな時代を迎えるが、この時、新時代の日本を明るく照らし出すかのように、文明開化のひとつの象徴となったのが石油ランプである。日本の開港とほぼ同時に伝来した石油ランプは、それまでの行灯に比べて10倍以上も明るく値段も安かったため、瞬く間に普及していった。それは工場の作業現場にも取り入れられて夜間作業を可能にし、工業生産の発展に重要な役割を果たした。こうして1877年以降、灯油の輸入が急増したのである。

石油ランプ

蝙蝠マーク入りの石油ランプのホヤ

さて、最初の石油ランプのひとつは新潟の長岡に持ち込まれたといわれている。新潟は1868年(明治元年)に開港されて以来、物資豊かな一大商業地として栄え、1872年には、いち早く石油ランプの街灯が275基も設けられた。また古くから産油地として知られ、石油ランプの普及とともに起こった石油開発ブームの中心となっていた。なかでも日本海に面して新潟県のほぼ中央に位置する尼瀬は潤沢な産油地で、海面に石油が滲むほどだったという。今回の最初の登場人物、内藤久寛は、1859年(安政6年)、この尼瀬に隣接する刈羽郡石地で生まれた。19歳のとき戸長(町村制施行以前の村長のようなもの)となり、26歳で県会議員に当選。その後、豊野浜漁業組合や新潟県水産組合連合会をつくるなど地場産業の振興に力を尽くしていた。その頃、出身を同じくする山口権三郎はすでに県政界の重鎮として産業振興に情熱を燃やしていた。1885年(明治18年)頃には、山口を中心に県会議員の有志や有力者50人あまりが集まり、殖産協会が結成され、産業振興や資源開発について活発に意見交換が行われていた。そのなかにあって、内藤はやがて「殖産興業の志」を抱くようになっていた。

尼瀬油田

最盛期の尼瀬油田(明治中期)

特に尼瀬の活況を見て石油業の未来に可能性を感じ、その企業化を着想する。そうした内藤の石油事業進出の提案に当初は慎重だった山口だが、たまたまアメリカ駐在の農商務省参事官鬼頭悌二郎からアメリカの石油事情について話を聞く機会があり、その心もしだいに石油事業に傾いていった。アメリカの石油産業は当時すでに世界市場を制して、大きな富をアメリカにもたらしていたのである。こうして石油会社設立の気運は高まり、1888年2月、殖産協会の懇親会で山口が会社設立の構想を述べ、有力会員の賛同を得てその設立が決定。社名は日本石油と命名された。ちなみに創立前のある晩餐会で会場に一匹の蝙蝠が舞い込み、蝠は福と同音だから福が舞い込んだとして、以後、「日本」の文字を蝙蝠の形にデザインしたマークが社章として使われるようになったという。同年5月10日、創立総会が開催され、内藤が常務理事(実質の社長)となって有限責任日本石油会社が設立された。その後、商法の一部が施行され、1894年、社名は日本石油株式会社に改称されることとなる。

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IRマガジン2003.春号 Vol.61 野村インベスター・リレーションズ

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