その頃、アメリカではすでにロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストが世界の石油市場を独占していた。明治維新前後、日本に輸入された灯油も、ほとんどがスタンダードの灯油だった。1900年(明治33年)、日本で外国人による日本籍の鉱業会社が認められるようになると、スタンダードは資本金1,000万円のインターナショナル・オイル・カンパニーを横浜に設立した。当時日本石油の資本金が120万円だったことを考えると、この企業の巨大さがわかる。インターナショナルは大規模に事業展開を行っていたが、やがて原油生産が不振となり外部購入も思うにまかせず、1907年5月9日、突然、日本石油に資産の売却を申し入れてきた。日本石油はこれを受け、わずか175万円で同社の新潟県下の全財産を買収し、1911年には同社の日本での事業はすべて日本石油の所有となった。
日本石油本社が移転した東京・丸の内の三菱21号館(1914年)
1914年に第1次世界大戦が勃発、航空機や戦車が登場し、石油は「灯火の時代」から「動力エネルギーの時代」へ転換していった。この年、日本石油は本社を新潟から東京市有楽町の三菱21号館へ移転した。戦後、石油の重要性に対する認識はますます高まり、国内原油増産の体制整備が必須となってきた。1921年4月、日本石油とこれに次いで国内2位の宝田石油が合併に合意し、同年10月には、内藤を社長、宝田石油の橋本圭三郎社長を副社長とする合併が完了、翌年には原油生産量が全国の87%を占める規模となった。