新聞広告第一号
(1909年5月26日付『東京朝日新聞』)
明治42年当時、京橋南伝馬町の事務所
博士の熱心な勧めに心打たれ商品化を決意した三郎助は、この新調味料が誰からも嗜好され、家庭の必需品になり得るかとの問題を抱えつつも家族の理解を求めた。早速博士に特許共有化を申し入れ、利益が生じた際にはその一部を提供するとの口約束までとりつけた。
この新調味料は、三郎助の息子三郎の提案により、全員一致で「味の素」と命名された。当時、ヨード事業は順調に推移しており、この商品化は当初、三郎助の個人事業「鈴木商店」として始められた。発売に際し、三郎助は東京衛生試験所に安全性試験を依頼し、「味の素」が衛生上無害であるとのお墨付きを得ている。「味の素」は、1908年12月、薬屋店頭にて試験販売開始、翌1909年5月20日には一般販売が開始された。弱冠19歳の三郎は、宣伝を全面的に任され、三郎発案の新聞広告第一号は同年5月26日の『東京朝日新聞』に掲載された。その他、折込チラシやチンドン屋、京橋に開設された味の素本舗の店頭ディスプレイや屋上イルミネーションなど、三郎は次々に新しいアイデアを実現していった。
最初赤字続きだった「味の素」も大正中期からは、未だ貴重品とはいえ、高級料理店や宮内省御用品とされるなど、ようやく人々に受け入れられるところとなった。経営はヨード以来の製薬事業から「味の素」の販売へと展開され、問屋組織「味の素会」の結成や流通経路を把握するための開函券制度をはじめ、料理講習会なども企画され、「味の素」は瞬く間に全国に普及した。この間、類似粗悪品の氾濫や、有名な「原料へび説」などに悩まされ、苦難の連続であったが、「味の素」は商品として世に認知され、人々は耳掻きひと匙分を大切に料理に供したのである。