1. 金融そもそも講座

第73回「経済は“祭り”だ PART2」韓国の友人の驚き / 祭りとは“企画”だ

日本には、伝統的な祭りがとても多い。前回、「阿波踊り、竿燈、七夕祭り」の三つを挙げたが、さらに「だんじり」もあれば「ねぶた」もあり、京都には「祇園祭」もある。多いだけでなく他の街の祭りを借りてきてまで祭りをする。祭りが多いのは、世界共通だろうか。実は違うのである。隣国の韓国と中国には日本人が“祭り”と呼ぶようなものがほとんどない。なぜか?そしてそれは日本とその近隣の国々の発展プロセスにどう影響したのか。

韓国の友人の驚き

日本が「祭り多き国」であることを私に気づかせてくれたのは、韓国の友人だ。彼は東京に赴任して一年くらいして私に、「日本は本当に祭りが多いですね。毎週末、各地の祭りをテレビで見ますが、韓国にはないですよ」と語ったのだ。私はそれを聞いてビックリした。祭りはどの国にも数多くあると思い込んでいたからである。

調べたら、彼の驚きは当然だった。韓国には我々が祭りと呼ぶようなものはなかった。長く韓国を治めた李王朝がそれまであった祭りの多くをやめさせたのだという。人の集まりは、鍬(くわ)とか鋤(すき)を持てば直ちに反乱につながると考えたようだ。

その事情は中国も同じだ。中国には50近い少数民族がいて、彼らは豊かな祭りを持っている。しかし漢民族の居住区域に祭りはほとんど存在していない。旧正月に爆竹を盛大にならすことが日本で報じられる程度だ。昔はあったという説もあるが、韓国と同じ理由で長い間禁止されたのだという。

では日本はどうだったのか。日本の為政者、特に江戸時代の殿様はむしろ祭りを奨励した。体制がしっかりしていて反乱にまで発展する政情にはなかったし、“祭り”という形で庶民や不平分子のエネルギーを解放した方がむしろ治世の安定に良いと考えたようだ。殿様たちは庶民も参加できる形で「花見会」などを頻繁に開いていた。これは多くの史実として残っている。

祭りとは“企画”だ

今でも日本は祭りを増やしている。私が「借り物祭り」と呼んでいるものだ。例えば、私が長く住んでいる中央線沿線の高円寺には、年によっては本家の徳島よりも人が集まる阿波踊りがある。その隣の阿佐ヶ谷は七夕祭りだ。二つとも本家ではない。「借りもの祭り」は戦後の日本でずっと増え続けてきた。街興しの側面が強いが、日本人がいかに祭り好きかということの証明だ。私も高円寺の阿波踊りには何回も参加した。

ところで、祭りを執り行うには何が必要か。それは何よりも“企画”である。周到な準備がなければ祭りは主催できない。いつ、どこで、どんな行事するか、人をどう誘導し、何を作って売り、どう盛り上げ、どうエンド(終わり)をつくるか。そして集まった人をどのルートで帰らせれば事故がないかを考えなければならない。もし何か不慮の事故が起きたときの対応策も考えておかねばならない。祭りとは企画力と運営力が問われることなのだ。

日本に祭りが多いということは、日本人が昔からこの繰り返しを行ってきたということだ。日本はアジアで最初にオリンピックを開催した国だが、これはある意味で当然だ。経済がアジアで一番発展していたこともあるが、催事に一番経験があったから、世界も日本での開催に不安を感じなかったのである。

資本形成に貢献

もっと重要なことは、祭りには必要な商品がいっぱいあり、祭りを繰り返せば繰り返すほど、「催事の企画」ではなく、「商品の企画」が必要になる。「もっと斬新なものに改良できるか」「新しい商品は作れないか」といった具合だ。中韓(官吏登用のための資格試験「科挙」中心のインテリが重きをなす社会)にはない、職人を大切にする文化と相まって、日本は実に様々な分野で世界に通用する産業を抱えている。産業の多様性は「江戸時代から多くの祭りを行い、水飴からお土産品などいろいろなものを作ってきた歴史の積み上げの成果」というのが筆者の見方である。日本でまだ祭りが増えているということは、もっと面白いものが出てくることを予感させる。

祭りの存在は、資本形成にも役立つ。筆者は長野県・諏訪の出身だが、そこには7年に一度開催される御柱祭りがある。子供のころから諏訪の大人たちがその祭りに備えて“積み立て”のようなことをしているのを見ていた。祭りの挙行にはお金がかかるから、地域の市民ばかりでなく商業団体や大口の寄付者は大きな資金を貯めていたはずだ。“7年に一度”の祭りとなればなおさらだ。

それは毎年祭りを挙行する場合でも同じだろう。貯めては使っていたわけだが、その中から資本形成とその後の事業起こしにつながる風土も出来上がったと思われる。祭りがあるとないとでは、そういう面でも社会が大きく違ってくると思う。

日本は明治維新の時には、鉄道敷設などに巨額な資金が必要となったために欧州や米国から資本を借り入れた。しかし一時期を除けば、日本は大部分の事業を自力で行った。それは国内での資本形成が進んでいたからだ。これが韓国や中国と違う発展ルートをたどった背景だと考えている。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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