1. 金融そもそも講座

第72回「経済は“祭り”だ PART1」景気刺激策としての祭り / バブルも祭り

ロンドンでのオリンピック(夏季としては30回目)が終わった。チケッティングに問題があっていくつかのスタジアムでは空席が目立つなど不手際もあったが、テロもなく、天候も総じて良く、前回の北京よりも2つ減らした26の競技はどれも大いに盛り上がった。 日本も13の競技で史上最多の38(金7、銀14、銅17)のメダルを獲得した。大きな“お祭り”だった。今回はオリンピックにちなんで、「経済は“祭り”だ」と題して書きたい。

景気刺激策としての祭り

規模の大小を問わず、祭りを開催するにはお金がかかる。会場を確保し、運営要員をそろえ、出し物を用意する。大量の食糧やお酒、お土産物も必要だし、準備だけで大変だ。しかしそれは大方報われる。訪れた多くの人がお金を落とすからだ。つまり楽しい祭りは、多くの人々が色々な方向にお金を使うきっかけになるのである。

今回のロンドンオリンピックはどうだったのか。招致に際して英国政府は「倹約五輪」を唱えた。既存施設を使うなどして、壮大だった北京(2008年)とは対照的に効率的なオリンピックを目指した。当初、英国政府が公表したオリンピック関連経費は24億ポンドだった。しかし、それは見る間に膨らんだ。世界200以上の国と地域が選手を派遣し、26の競技を行い、テロに対する準備をし、選手村など新規施設を作るとなれば、倹約の一言では片づかない問題が次から次へと生じたからである。

最終的な数字はまだ出ていないが、直近の統計によれば英国政府は総額で94億ポンド(約1兆1600億円)ほど使ったと見られる。当初予算の4倍だ。この間にポンドは日本円に対して一貫して下がってきているので円ベースではそれほど膨らんだ印象はないが、英国にしてみれば大変な出費である。

英国のGDPは日本の約半分なので、この約1兆1600億円の支出は大きい。大きな景気刺激策だったことは間違いない。英国は約10年かけて選手育成にも大きなお金を使ってきたはずだ。そうでなければ、前々回のアテネで金メダル9個だった国が、8年後の今回29個も取れるはずがない。日本も選手育成には30億円以上のお金を使った。世界がオリンピックに使ったお金は、合計すれば何兆円にも達するだろう。巨額な「財政出動」といえる。

高揚感と接近

ところで、祭りの特徴とは何だろうか。筆者はまず“高揚感”にあると思う。オリンピック期間中、英国のみならず世界各国が「メダルがいくつ取れた」と高揚した。サッカーのワールドカップもそうだ。これは阿波踊り、竿燈、七夕祭りなど日本の祭りにもいえる。街全体が毎年その時期になると高揚する。お金を使い、準備もするから、期待も気分も高まる。人々の気持ちは、通常よりハイになる。

祭りに着る着物を昔は「晴れ着」と言った。晴れ着とは「ハレとケ」の“ハレ”から来ている。つまり人生の節目や晴れ舞台に着る衣装ということだ。対して普段着を「ケ着」と言った。祭りに参加する人も見る人も一年に何度かその衣装をまとって気分を高揚させたのが日本に昔からある祭りだった。そこでは、人と人の距離はいつもより異常に接近する。みこしを担ぐには人との距離は取れない。大勢の人と見物するのも同じだ。

人が高揚感を持って集まるという点でいえば、今は街中のあちこちで「小規模な祭り」が展開されていると思う。人気ラーメン店にわくわくしながら並ぶのも、バーゲンに集うのも祭りを楽しんでいる。消費中心の今の先進国経済では、祭りを作らなければ回らない経済になっている。いつも晴れ着を着る経済が今の先進国経済なのだ。考えてみれば、戦後「三種の神器」と呼ばれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機を日本人が競って買ったのも、一種の祭りだった。

バブルも祭り

「経済における最大の祭りとは“バブル”である」というのが私の意見だ。人々が高揚して不動産を買い、株を買い、そして絵画を買う。海外の高利回りの債券を期待を込めて買う。そこに参加している人々は、ほぼ例外なくある種の高揚感を味わっている。「もっともうかるはずだ」と。

祭りは楽しいから長く続いた方がよい。しかし、今回のオリンピックも17日間で終わったように、祭りはいつかは終わる。規模が大きければ大きいほど、そして高揚感が高ければ高いほど、終わった後の寂寥(せきりょう)、反動が大きい。日本は1990年代に、米国は2008年にそれを味わい、欧州は今その渦中にある。いつも問題なのは負債だ。とすると、上手な経済政策とは、崩壊が目に見えているようなバブルをあおらず、制御可能な祭りを人々に楽しんでもらうことかもしれない。

オリンピックは開催後に主催国を不況に落とすことがある。東京オリンピック開催年の1964年を過ぎた日本もそうだった。経済は祭りの連続で、それがないと刺激がない。しかし刺激が強すぎるとその後の寂寥が怖い、という難しい関係にある。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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