1. 金融そもそも講座

第34回「ゆがみ続ける世界経済」

2011年は実に不思議な幕開けだ。昨年末からの流れを受け継いで、中国などが預金準備率の引き上げを続け、一生懸命「引き締め」に走っているのに、日本では日銀の白川総裁が、「(日本の景気は)緩やかに回復しつつあるものの、改善の動きに一服感がみられる」と述べ、超緩和をベースとする現在の金融緩和政策を維持する方針を明らかにした。米国も企業業績は改善してきたが、依然として超金融緩和策を続行している。

つまり、世界の主要国の金融政策が真逆を向いているばかりでなく、逆の方向に乖離(かいり)を強めているのである。昨年も指摘したとおり、筆者は長く世界の経済を見てきたがこれほど主要国の経済・金融政策が逆方向を向き、さらに中心点から離れつつあるのを見たことがない。先進国の中では特に日本にデフレ懸念が残る一方で、中国やインドには強いインフレ圧力があって、それが昨年後半からの政策金利や預金準備率引き上げを含む金融引き締め措置につながっている。BRICsといわれる国の中で、景気が振るわないのはロシアだけで、ブラジル、インド、中国は各国政策当局が心配するほどインフレ率が高まり、その結果金利は上昇、特にブラジルなどはそれに伴う通貨の切り上げが国内経済への重荷になりつつある。

違いすぎるレベル

そもそも、どうしてそんなことになるのか。その最大の原因は、各国の物価の水準が違うことがある。例えば私が2008年に行ったベトナムでは、高校を出て1、2年目の女子工場労働者の賃金は月額8000円だった。十分ではなくても、彼女らはそれで暮らせる。親に相当な仕送りをしてもだ。ということは、物価水準が非常に低いということである。つまり物価のスタート台が低い。これに対して、日本の物価のスタート台は非常に高い。筆者は日本がバブルに踊っていたころの日本を「圧力釜経済」と呼んだ。日本国内の資産価格(株や土地)の上昇が激しいために、貿易収支の黒字を背景とする資本が国内に滞留し、それがまた資産価格を押し上げる構造だった。その方がもうかったからだ。つまり、蒸気が抜けない圧力釜の中に日本経済が入っているようなものだったのである。

日本人の労働賃金は世界でも非常に高い方に移行した。加えての基調的な円高だ。当時、各社のボーナス込みの労働賃金は、今の若い人が聞いたら、世界比較で見てびっくりするほど高かったのである。一般物価はそれほど上がったわけではないが、それでも世界の中で一番ブランド商品が売れるのが日本であったりして、日本は「訪れるのもはばかられる割高な国」となっていたのである。日本ばかりでなく、先進国は80年代、90年代に総じて高コスト・高価格の国になった。日本の労働者の賃金といえば、初任給で月額20万円に達していたのである。上がったといっても、中国の熟年工場労働者の労働賃金は今でも月額1万5000円といったところである。まだまだ日本と中国の物価・労働賃金水準は大きな食い違いがあるということだ。

平準化を拒む壁

水位の違う二つの湖の間を仕切っている堤防やダムを取り除けば、二つの湖の水位はすさまじい水の移動と共に見る見る同一になるだろう。水は自由に移動するからだ。しかし、国と国の間には堤防やダム以上の障害物が待ち構える。それぞれの国には制度があり、社会の安定を維持する必要性があり、年金などの制度がある。例えば、中国の物価水準を大幅に上げることは、依然として所得の低い出稼ぎ労働者や多くの農家が貧しい生活をしている中では難しい。所得が上がらなければ、生活できない。中国の昨年11月の物価上昇率が5.1%、中でも食料品の価格が12%近く上がったことに中国指導部は大いに慌てたといわれる。なぜなら、それが続けば社会不安が発生することは明らかであるからだ。

だから、「中国の物価が上がることは、日本との物価格差が縮まることだから良いことだ」という訳にはいかない。物価が上がっても庶民の不満を買わないためには、所得が上がる必要がある。しかし今、中国で所得を大きく上げたら、「世界の製造業基地」としての中国の地位はベトナムなどに取られてしまうだろう。とすれば、中国の経済成長力が失われることを意味する。難しい選択だ。徐々に進めるしかない。一方で、中国が開放経済を取っている限り、また世界との貿易を進める限り、賃金が時間をかけて上がり、物価も上がることは容認せざるを得ない。

このように、経済政策とは国内の経済・政治情勢、国際情勢など多くの要因を加味せざるを得ない。日本や米国が超金融緩和をしていても、途上国は物価情勢次第では自国通貨の切り上げを覚悟して引き締めをしなければならないということだ。今の世界は、ベルリンの壁が落ちる前の「自由主義・開放経済=先進国」「社会主義的な閉鎖経済=当時の開発途上国」という大きな二つの体制の、長い融合プロセスの最中にある。だから真逆の経済・金融政策が矛盾をはらみながら同時に行われている、という現象が生まれている。

しかし、それは当然“ゆがみ”を世界経済に生む。本来だったら途上国などの金利の上昇の中で、それら諸国の通貨は上昇せざるを得ない。それがまた先進国と途上国の間の物価格差を縮める。実際にブラジルはそうしている。しかし中国は、人民元をもっと切り上げなければいけないのに、利上げをし、預金準備率を上げていて、それをしていない。よって中国の輸出は信じられないくらいに対米、対世界で伸びていて、それが世界的な貿易収支の不均衡を生んでいる。この問題こそ、今私が原稿を書いている時点で中国の胡錦濤主席と米国のオバマ大統領の間で行われている米中首脳会談の主要議題の一つである。

調整には時間

米中間の摩擦の大きさを見ても、世界の物価の平準化が二つの湖の間の障害物(堤防やダム)を取り除けば済むような簡単な話ではないことが分かるだろう。途上国と先進国との物価・賃金格差の大きさを考えると、今後しばらくの間この二つの国家群の間の摩擦は絶えることなく続くと考えることができる。中国の目覚ましい経済発展にもかかわらず、依然として不法に日本で働こうとする中国人が多いのは、絶対的な賃金格差があるからである。ブラジルの著しい経済の成長にもかかわらず、南米大陸を北上し、中南米を通ってメキシコに行き、そこから米国入りを狙う人々の波が絶えないのも、それが理由だ。

この二つの国家群の大きな物価・賃金のギャップがいつ解消するのか、そしてそもそも解消するのかは分からない。なぜなら、今の中国やインドがあの大きな人口を抱えて、今の米国、欧州、それに日本のような先進国のシステム(医療・年金システム)を構築し、安定した社会を作れるかどうかは分からないからだ。そうしたシステムがなければ、先進国とはいえない。むろん、無理をした先進国の医療・年金システムが揺らいでいることは確かだが、形を変えても先進国では維持はされるだろう。

中国の人口は2020年過ぎには急速に高齢化する。今の中国の指導部の最大の懸念は、「中国が豊かになる前に再び人口ボーナス(働く人が多く、働けない人を支えられる状態)の消失などで貧しい国になってしまうのではないか」ということだ。中国は豊かになったといっても、国民一人あたりのGDPは3000ドル超と日本の十分の一だ。まだ貧しい。オバマと会談する胡錦濤の頭には、そのことがしっかりと刻まれているはずだ。

それが中国の異質な政策を生み、米国や日本とのあつれきを生む。それは今後も変わらない図式だろう。それは他の途上国が少なからず抱える問題である。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

バックナンバー2011年へ戻る

目次へ戻る