1. 金融そもそも講座

第67回「では“危機”とは何か? PART1」マーケットにとっての真の危機とは

筆者は前回の「司令塔なき危機」で、何げなく“危機”という言葉を使った。しかしこの言葉は、複雑で難しい意味合いを持つ。例えば、株をショート(空売り状態)にしている人から見ると、ギリシャ危機のような事態で世界的株安が起こることは「利益」につながる。そういう意味では“危機”ではなく“チャンス”である。つまりマーケットではその人がどちらに立っているか、持っているポジションがどうかによって利害は大きく違う。ではどのような場合に“危機”という言葉を使い、その範囲はいかほどで、使う人それぞれにとってどういう意味を持っているのだろうか。

マスコミが使う“危機”

マスコミは実によく危機という単語を使う。「日本経済の危機」「政党政治の危機」「財政危機」「ギリシャ危機」などなど。新聞などを読むと、「この世は危機に満ちあふれている」と思う。それでも社会というのはきしみながらも回っているし、今の世界に住む人々の生活は、50年前に比べると、格段と便利に、快適になっている。まるで人間の世の中は危機を食べながら成長しているように見える。

あまり頻繁に使われるので、「 危機とは何か?」をあまり問題にしなくなっているが、マスコミが使う危機という言葉の持つ意味合いは、「現状からの悪しき方向への変化」という面が多いように思う。“悪しき”というのは誰が判断するのかは結構難しい問題だ。例えば、急速に普及した携帯電話を考えてみると、新しい通信機器という意味で経済を拡大させる大きなチャンス(契機)であると同時に、それを悪用した犯罪の温床にもなりかねない。つまりたった一つの製品においても、そこにはチャンスと危機が同居する。

マスコミが「XX党の危機」と見出しを打てば、XX党が党勢の衰退(またはその予感)にひんする事態を指すのだろう。分裂もそうかもしれない。しかしそれでも危機の受け止め方は各自違う。その政党の終わりと考える人もいるだろうし、一度危機になった方がその後に再生できると考える人もいるだろう。実は千差万別なのだ。

だからこの文章を読んでいる人、マーケットに関係する人などは、マスコミが使う危機という言葉が実際には何を指しているのかをよく考える必要がある。漠然と使われている言葉が、実際に起きていることの真の意味を曖昧なものにしている面があるからだ。それが実際に何をもたらすのか、自分にとってどういう意味合いがあるのかをよく考えないといけない。そこには必ず自分にとってプラスの面、マイナスの面、嬉しい面、悲しい面、許せる面、許せない面などいろいろな側面があるはずだ。

危機には“レベル”の問題も

また危機には“レベル”というようなものがあると思う。例えば、「ギリシャ危機」でもいろいろな段階で危機を考えることができる。

  • 1. ギリシャの失業率が20%を超え、街の商店の多くが店じまいし、税収が落ちて政府の財布がカラに近づいているという意味では、既に今の情勢はギリシャ国民の多くにとって身近な「生活の危機」である
  • 2. しかしそれが国内的困難にとどまっているうちは他国の危機ではない。今はギリシャの経済危機がスペインなど南欧州全体に飛び火して同地域の経済活動全般が低迷し、それが世界的な株安を引き起こしている。そういう意味では、ギリシャ危機は「南を中心とした欧州の経済・失業危機」であり、「世界的株安の危機」でもある
  • 3. それとは別に“システム”の危機も起こしつつある。それはユーロという共通通貨の危機(もしかしたら、存続ができないかもしれないという意味で)につながっているし、もっと直近では欧州の南の国々の金融危機(銀行の資本不足、それによる金融機能の低下、個人・法人による預金の移し替えなど)の様相を呈している。これは「システミック・リスク」と呼べるものだ
  • 4. 仮にそれが起きたとすると、“枠組み”の変化ということになる。例えば、今までの10年、世界の企業は欧州と取引するときにはユーロという通貨を単一に使ってきたが、今度はギリシャが新しい通貨を導入するかもしれない。そうなるとコンピューター・システムなどの切り替えが必要になるし、南欧州の銀行がその地域の人々にも信用されなくなったら、決済をどうしたらよいのかなどの問題も起きる

まだまだ続く。いろいろな状況、広がり、深度があり、さらにそこにはチャンスも潜んでいて複雑だ。それを危機の一言で片付けているわけだから、その言葉を使う方も、使われる方も「ここではどこまでの意味を言っているのか」を常に考えなければならない。

マーケットにとっての真の危機とは

マーケットに携わる人間にとって、絶対に避けたい危機がある。そこにはチャンスもない。

それは「マーケットの喪失」という事態だ。これは歴史的に見ても極めてまれなときにしか起きないのだが、市場があまりにも混乱してbid(買値)とoffer(売値)の両方が消えてしまう、つまり市場の関係者が誰もプライスを提示しないような事態になることだ。売りたい、買いたいという人両方が消えてしまったら、マーケットは成り立たない。商いができないということだ。さらに言えば、bidとofferの両方が消えなくても、片方が消えたらマーケットは機能しない。例えばバブル後の不動産市場では、長い間bidが示されないときがある。皆が売りたいからだ。これでは市場が機能しているとはいえない。

常にbidとofferの両方が立っている市場は、それほど多くはない。美術品の市場などは、しばしばどちらかしか出ていないケースがある。田舎の土地などもそうだ。今の世界でbidとofferが狭い範囲で常に提示されているのは、主要通貨間の為替相場だ。売ろうと思えばいつでも売れ、買おうとすればいつでも買える。これを「流動性」という。市場にとって一番大事なのはこの流動性である。

売れないものを買うのは“趣味”だ。投資とは流動性のあるものを買ったり売ったりすることだ。マーケットにとっての真の危機とは、この流動性が失われることなのだ。そういう意味では、ギリシャ国民の生活水準の低下も、ユーロという通貨の解体も問題ではあるが、それ以上にギリシャ危機がもたらしうる究極の危機とは、欧州の金融システム不安が拡大することによって、為替、株式、債券、商品など各種市場が機能不全を起こすことだ。その危険性はゼロではない。だから、多くの人が不安なのだ。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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