1875年に創設された、銀座・煉瓦街の店舗兼工場、後の田中製造所。これが東芝の発祥である
1868年、265年続いた徳川幕府が滅び、時代は明治へと変わった。翌年、初の通信事業が東京-横浜間で開始されたが、機械はすべて外国製で、電信網を整備して国を近代化させるためには電信機器の国産化が不可欠だった。その開発のために明治政府が白羽の矢を立てたのが田中久重だった。この時久重はすでに70歳を超えて故郷久留米に戻っていたが、工部省の再三の招きで、1873年(明治6年)、ついに上京した。早速、機器の開発に成功し高い評価を得た久重は、受注の拡大を機に、2年後の1875年(明治8年)7月1日、銀座の煉瓦街(現在の銀座8丁目)に後の田中製造所となる店舗兼工場を創設した。これが日本最初の電信機器工場であり、東芝の発祥である。
久重はその6年後、1881年(明治14年)、82歳でその生涯を終えた。田中製造所は久重の養子である田中大吉改め2代目久重が継ぎ、事業を電気工業に絞って、エレクトロニクス産業の基礎を築くことになる。当初は順調に発展したが、徐々に苦境に陥り、1893年(明治26年)には、「芝浦製作所」と改名した。この頃、電気機械分野に参入して重電メーカーとしての歩みが始まった。1904年(明治37年)に日露戦争が始まると好景気で好調が続き、それを機に、同年7月1日、「株式会社芝浦製作所」が誕生した。1909年(明治42年)には海外の先進技術を導入するためにアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携し、以後、重電メーカーとして大いなる飛躍を遂げていった。
藤岡市助
国産初期の白熱電球
一方、芝浦製作所に先駆けて、1905年(明治38年)にGE社と提携した会社が、東芝のもう一人の創業者、藤岡市助(いちすけ)が興した東京電気株式会社である。
市助は、1884年(明治17年)、工部大学校(現在の東京大学工学部)の教授時代に、国の使節としてアメリカの電気産業を視察し、その時エジソンと会見している。エジソンは市助に、「どんなに電気が豊富でも、電気器具を輸入しているようでは国は滅びる。まず電気器具の製造から手がけなさい」とアドバイスした。
創業当時の白熱舎
感銘を受けた市助は日本の電気産業の発展に力を尽くすことを決意し、教職を辞したあと、1890年(明治23年)、白熱電球を製造する合資会社「白熱舎」を設立、1899年(明治32年)、社名を「東京電気」に変更した。業績は良くなかったが、前述したように1905年にGE社と提携し、大会社へと発展していった。
昭和に入り、1931年の満州事変、1937年の日華事変を契機に軍需景気が促進され、経済は空前の活況を呈していた。この頃、東京電気の社長だった山口喜三郎の頭には、重電の芝浦製作所と軽電の東京電気を合併し、日本のGE社ともいうべき一大総合電機メーカーを実現しようとする構想があった。かくして1939年7月1日、久重が初めて銀座・煉瓦街に工場を構えた日と同じ日に、総合電機メーカーの東京芝浦電気株式会社が誕生。その後、1984年に、社名は現在と同じ株式会社東芝に変更されている。