懐中燭台
右が組み立てた形[東芝科学館所蔵]
江戸末期に都市で産業が発達してくると、人々は夜も仕事や遊びに費やすようになり、明かりの需要が拡大していた。久重はそうした時流を捉え、まず「懐中燭台」を売り出した。これは懐に納まる携帯用ロウソク立てで、医師の往診などに重宝がられてヒットした。 ところでロウソクや行灯など当時の照明は、携帯用はまだしも、室内を照らすには明るさが不十分で、しかも隙間風が吹くと炎が揺れて安定しない。そこで久重は、かつて江戸への旅で修得した「リクトパルレン」の技術を応用し、行灯の燃料であった菜種油を空気圧ポンプで加圧して、灯芯に強制的に送り込む機構を考案した。この機構を応用したのが「無尽灯」で、燃料を多量に燃焼させることでロウソクの約10倍という明るさを実現させ、さらに炎をガラス製のホヤで覆ってチラつきも解消した。この商品も新しいライフスタイルの要求に応える画期的な商品として大いに喜ばれた。
無尽灯[左:東芝科学館所蔵、中央・右:佐賀県立博物館所蔵]
こうして商売は順調に発展していったが、1837年(天保8年)2月、大塩平八郎の乱が起こる。幕政に抗議して蜂起した民衆は米屋や豪商を襲い、大阪の町は大混乱に陥った。久重と家族は避難して無事だったが、3年間で築き上げた財産はすべて失われてしまった。家を失った久重と家族は、親戚を頼って伏見(現在の京都市伏見区)に移り、再起を図った。発明家としての成功を手にした久重が次に目指したものは、和時計の製作であった。当時、最先端のテクノロジーと考えられていたのが時計で、そのために久重は、この時代にさまざまな科学知識を修得している。なかでも天文暦学については、名門土御門家に入門し、仕事のあと深夜まで毎晩通いつめた。土御門家は安倍晴明を始祖とし、天文学と陰陽道で朝廷に仕えた公家で、久重はここで時刻、暦、天体についての知識を次々に吸収していった。
1847年(弘化4年)、久重は四条烏丸に「機巧堂(からくりどう)」を開店して事業を拡大する。ここで懐中燭台や無尽灯を本格的に生産し、また和時計を製作しながら時計師としての技に磨きをかけた。そうして培われた知識、技術、アイデアのすべてが、やがて和時計の最高傑作といわれる「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」に活かされていく。
和時計の最高傑作「万年自鳴鐘」久重がその技術のすべてを注ぎ込んだ「万年自鳴鐘」は、1851年(嘉永4年)に完成した。高さ約60cm、それぞれ異なる時計が埋め込まれた6つの面を持ち、天頂部には、正確に描かれた日本地図上を月と太陽の位置を示す金属球が移動する天球儀(プラネタリウム)が取り付けられている。6つの面はそれぞれ、昼と夜の長さによって時刻の間隔が変化する和時計、太陽の動きによって1年を24等分した二十四節気の記入板、曜日を示す七曜、十干十二支の日付、旧暦1カ月の日付と月の満ち欠け、西洋時計となっている。さらに時を知らせる鐘。これだけの機構がすべて連動して動く。動力は真鍮製のゼンマイで、1回のネジ巻きで約1年間作動したといわれている(1949年の分解調査では225日間の作動が確認された)。
万年自鳴鐘
田中久重が1851年に完成させた和時計の最高傑作。
国家プロジェクトによって複製が制作され、「愛・地球博」のシンボルパビリオンである「グローバル・ハウス」で一般公開された
[(株)東芝所有・国立科学博物館へ寄託]